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プロローグ
コンコンと。ふと、玄関の戸が叩かれたような気がしたが、時計を見ると既に丑三つ時であり、こんな時間に来客など余程の用で無ければ来ないだろう。それに、建て付けの悪い戸がガタリと鳴るのはいつものこと。現に今も真冬の夜風が吹き付け、リビングの窓ガラスはカタカタと震えている。きっと風に違いない。
まして、連日の大雪で此処までの道は閉ざされていたはずだ。億劫がって除雪をしていない自分に辟易しつつも、雪の大国と名高いデルバールならば仕方ない。そう自身に言い聞かせ、エリン=フォレストケイブはすっかり冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。
※ ※ ※
数分としないうちに再び戸を叩く音が鳴り、続くように響くウィンドチャイムの音。すっかり寝落ちしていた彼が起きると、両脇を騎士で固め仮面で目元を覆った少女がそこにいた。
「……あの、『悪鬼』様でいらっしゃいますか?」
形の良い唇から透き通るようなソプラノで紡がれたそれは、彼の異名だった。呪詛師の母と王家直属の暗殺者を父に持つエリンは、幼少より両親から手ほどきを受け、死のエキスパートとして貴族社会で名を馳せ今日に至る。
もっとも、異名だけが一人歩きし、デルバール中の主婦が皆一度は夜更かしをする子に「早く寝ないと『悪鬼』が食べに来る」と言い聞かせ、またそのアレンジが幾つも存在するのだが彼が知る由も無い。
「ええ、巷ではそう呼ばれてるみたいですね。……それで、ご依頼は何でしょうか?」
彼が短く返すと少女は仮面を外し、素顔を晒す。白磁のような肌にホワイトゴールドの髪。タンザナイトの瞳はどこか諦観を孕んでいて、エリンには夏日の陽炎のように儚く見えたが、そんなことは些事でしかない。
エリンは思わず見惚れかけたが、ふと目に入った彼女のイヤリングに息を飲んだ。エメラルドのそれに刻まれた柄は雄々しい一角であり、それは奇しくも王家の紋と一致していた。
そして、デルバールでは建国よりエメラルドの装飾を末姫に贈る風習があり、そこから想起される人は一人しかいない。
「……オリビア王女殿下」
彼女は静かに首肯し、エリンに依頼を告げた。
「どうか……私を殺してください。それが、『悪鬼』たる貴方様への依頼です」
オリビアの表情から切実なものだと解りつつも、彼はこの依頼を受けるか悩んでいた。そんなエリンの心情を察してか、彼女は一言。
「こちらが陛下からの書簡です。私のような小娘の依頼は受けてもらえないと思いましたので」
その一言で容易く彼は折れた。なにせオリビアからの依頼が陛下からの王命に変貌を遂げたのだから。
「え、と……読ませていただいても」
書簡に書かれていたのは終始オリビアの言葉と違わなかったが、新出のオリビアが不死である情報に加え最後に添えられた「あの娘を頼む」という一文に許容量超過となった彼は天を仰ぎ呻くようにして答えた。
「…………承りました」
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