爪先の蛭

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昨日、会社の同僚たちとキャンプに行った。 それで、左足の爪先を蛭(ひる)に喰われた。 蛭というのは、黒くてうねうねしていて人間の肌に吸い付き、時には肉の中まで侵入し血を吸うという恐ろしい害虫である。 害虫というものの、そもそも虫に分類されるのか。 川に蛭がいるという話は、キャンプを提案した由紀子から聞いていた。由紀子は、高校生の頃からの友人だった。部活熱心で大学に入っても、バトミントンサークルを頑張っていた。大学は同じだったけれど、私は音楽が好きでブラスバンドでトランペットを吹いていたので、同じ就職先に決まるまではそんなに仲が良かったわけではない。 面接会場で何も知らず、鉢合わせた時はすごく気まずい思いをした。集団面接だったので一応、ライバルである。 内定が決まった日の翌日、おそるおそる連絡をとってみたら、何と由紀子も受かっていた。三人が定員だったが二人、採用ということだった。その後、二人で採用祝いにカフェでケーキを食べた。そんなこんなで、大学での失恋話をお互いに披露しあった事もあり急激に仲が深まったのだ。 他のテントの女子たちにも声をかけたが当然、川に入るのは遠慮していた。登山も嫌がって、私たちが徒歩で山頂に向かっていたところを途中からタクシーで追い抜かしてきたような子達だ。 キャンプに興味があると言うので、連れてきたのだが端から見ていて、何を楽しみに来たのか分からない。 私は「水に足を浸けたい」という純粋な欲求に駆られ、蛭など恐れずに川に入りたがった。 同じテントの千枝は、好きにすればって感じだし「いつものことだ」とでも言いたげな顔でキャンプ初心者読本とやらを読んでいる。 まきちゃんは「蛭に噛まれないようにね」と心配してくれた。絆創膏まで渡してくれたが、相手が蛭では絆創膏は役に立たないだろう。 「まじ、やめたほうがいいって」と由紀子が止めても「もったいないじゃん。川なんてなかなか来れないんだし」と、ズボンの裾を膝まであげ裸足でじゃばじゃばと川へ立ち入った。 川の入口まではついてきてくれた由紀子も「まったく、理依は」とこぼすと、テントへ戻っていってしまった。 「蛭に噛まれる事などを怖がっていては、これからの会社勤めやっていけない」という、おかしな気概が生じてしまったのだ。 自分のキャパシティ以上の仕事をこなさんとしながら生きていると、たまにこのような不思議な儀式が自然発生する。ただのOLにも突然、神がかる瞬間があって、狂気を孕んだ宗教儀式みたいな事を無自覚にしてしまう事がある。 周りには、ただのストレス発散、日頃の不満の爆発などというような解釈が為されるが、至って本人は崇高な気持ちで行っているのである。 蛭に噛まれにいく私に呆れていた、由紀子にさえある。 彼女は、アニメヲタクで男装キャラのコスプレをする事が好きなのだ。 「何が、楽しいのかわからない」と率直な言葉をぶつけてしまったことがあるが、やはり「私が彼のコスプレを身に纏っているときはね、もはや私自身ではないしその時、私は別の次元で眠りについているのよ」などと、至極、純粋な瞳をして語っていた。 以前、ブラック企業に勤めていたまきちゃんは自殺する気はないのに樹海だの何だのと自殺スポット巡りをするのが好きだと言っていた。自殺したかったわけではなく、ただそういう廃墟とか暗い場所が落ち着くんだよねということだった。 本当に心配して、色々と問いただしたのだがまきちゃん自身は、「自殺には全く興味ないし、寧ろ反対派だ」などと飄々と抜かしていた。 まきちゃんの潜在意識には実はそのような願望があり、それが趣味として顕現しているのではと私の頭ではどうしても考えてしまうのだが、それ以上深入りするのはやめておこうと思った。 千枝は、最近入ってきた子だけどしっかりしていて年齢より大人びている子だ。今のところ、彼女のおかしな儀式は見つかっていない。 私は、危険なスポットに飛び込む、肝試し、誰も食べたがらないようなグロテスクな珍味を食べることなどが儀式なのだ。 自分にまだ未知の社会にぶつかっていく力と度胸があるのかと、自問自答するための儀式でもある。 そして、今回当たったのが蛭。それだけのことだった。 私は、このキャンプで案の定、蛭に噛まれた。親指の奥に短めの赤黒い蛭が、侵入した。見た目かなり、痛いが体感はそうでもない。 駆除するもんだと思って、左足を気遣いながらテントに戻って靴を脱いだら蛭は、いなくなっていた。痛くもない。 「蛭、いた」 と、報告すると由紀子が「ほらね」と言ってはぁとため息を吐いた。私が川に行っている隙に、カレーを完成させたようで私の分までよそってくれている。 「さっきまで、親指にいたのに消えてる。逃げたのかな」 「そんなことある?」 由紀子は、少し面食らった表情をしているが少し可笑しそうに笑っている。 まきちゃんは、血は出てない?と心配してくれている。ちゃんと心配してくれるのは、まきちゃんだけである。 千枝に至っては、すでにカレーを頬張っている。ニンジンが固い、と少し文句を言った。「全然、痛くなかったよ」と言うと「幻覚じゃない?」と鼻で笑われた。 「いなくなって、良かったじゃん。蛭なんか持ってこられたら、私たちどうすればいいのよ」と由紀子は、少し面倒臭そうだ。 明日は、もう川には行かないからとだけ言ってよそってもらったカレーを食べた。 その夜は、4人でキャンプファイヤーを囲んだ。ほとんど由紀子から報告される、別のテントの女子3人の好ましくない態度や「なぜ、キャンプに来たのかわからない」エピソードを肴に度数の低い缶チューハイとノンアルの缶ビールを沢山空けた。 登山一つこなせない3人なんかより、私たちの方がよっぽど将来性のある女子だ、というよくわからない自負が私たちを盛り上げた。 由紀子は、早口で捲し立てながら終始イラついていたが楽しそうで、私と千枝とまきちゃんは、ずっとそれを見て笑っていた。 寝袋に入ってから、私の元にはすぐに睡魔がやってきた。何だかんだいって、この三人と過ごすと楽しいとこのキャンプを通して改めて痛感した。この会社に入って良かった、とまで思った。 そのまま深い眠りに入る直前、左足の爪先に激痛が走った。痛っと声が出そうになったが、隣に寝ている由紀子の眠りを妨げないよう自然と声は抑えられた。 枕元のライトをつけて、足の指を見ると川で刺してきた蛭がまた現れていた。指の皮を喰い破って、今にも出ようとしている。 痛みを堪えながら、蛭が完全に這い出るのを待つことにした。痛みが一定のラインを越えると、暴れるよりも思考が停止する癖がある。 蛭が、口をきいた。 「あなた、でしたか」と言う。由紀子ではなく、蛭のほうから声がする。蛭はいつの間にか、指から完全に這い出ている。 頭をうねうねと動かし、こちらを窺っているようにも見える。 「蛭に噛まれるのは、良くないことですね」 蛭は、自分でそう言った。また、申し訳ないことです、と続けて言った。 怖くなって、由紀子を起こそうとしたが隣に寝ているはずの由紀子はいなかった。いない、というよりは見えなかった。周囲の空気にも異変があり、ふわふわとした何かが漂っていて由紀子は、それに隠されているような感じがする。とろろ昆布みたいだが全然、美味しくなさそうだ。 「ご友人は、いらっしゃらなかったのですね」と蛭は、言った。そして、こう続けた。 「わたくしは、蛭なのですが元々は、蛭ではなかったのです。入水した人間、もしくは元々あの川を守っていた龍、ただの魚だったような記憶もあります。水に溺れて苦しかった感覚、棲んでいた川が汚れていく悲しさも覚えております。初めは何だったのか、までは定かではありません。この川で繰り返し、何度も転生をしたのです。蛭になりましたからには、血を吸って生きねばならず、魚やあなたのような人の血を糧に生きてきました。恐ろしいことです」 私は、驚きやら怖さやらでよく話を理解できずにいたが元は、この蛭は蛭ではなかったというところまでは分かった。声が出なかったので、蛭が話すのを待った。 「あなたの体に潜ったときに、言葉を授かりました。おおよその蛭は、人の体にもぐり血を吸ったからといって人の言葉まで貰えるわけではないでしょう」 そこまで話して、蛭はゆっくりと項垂れるように床に短い身体を沿った。 私は、気味の悪さが頂点に達して枕元に置いてあったキャンプ場のパンフレットで蛭を叩き潰した。 バンッと音がテントに鳴り響いたかと思うと、あのふわふわとした空気が一気に弾け跳ぶように、消えた。 我に返ったのと同時に、隣の由紀子が飛び上がって目を覚ました。 「どうしたの?」 「蛭が、喋った」 勘弁してよ、と呟くと、由紀子はまた寝袋に潜ってしまった。夢を見ただけだと、思われたのだろう。 足からは、蛭が喰い破ったとみられる血が滲み出ている。夢ではないようだ。蛭を叩いたパンフレットの裏側をおそるおそる確認すると、やはり黒いぶるぶるとした塊と吸われた血が残っている。 由紀子を起こす気にもなれなかった。 ティッシュで、寝袋についた蛭の跡を何度も擦ったが完璧には取れず、そのまま寝ることにした。 朝になり、足を見てみると喰い破られた傷は残っていない。ティッシュで拭いても取れなかったはずの寝袋に付いた血と蛭の痕跡は、綺麗になくなっている。 慣れない寝袋で寝たから、おかしな夢を見たのかもしれない。由紀子が起きたところまでも、夢だったのか。 由紀子は、もう起きているようで彼女の寝袋はすっかり片付けられている。 テントの外では、彼女たちの話し声がわずかに聞こえている。朝食の準備をしている匂いもする。 とりあえず、寝袋を片付けようと立ち上がろうとしたが、そうできなかった。 足を突っ込んでいた寝袋の中には、あのふわふわとした気味の悪い空気の中を無数の蛭が泳いでいた。 咄嗟に足を引き抜くと、蛭は消えた。 それから後は、蛭が現れることはなかった。 会社の喫煙所で由紀子に一連の流れを話すと、目が覚めたところは覚えているようだった。 「だから、川入るなって言ったじゃん」などと、煙草片手に笑っている。 ため息と同時に吐いた煙が消えていくと、彼女の首筋の皮膚には、あの一匹の蛭が透けている。 まるで、浮き出る動脈のように彼女の首筋で蛭は蠢いた。 そして蛭は「恐ろしいことです」と、再び呟いた。
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