一章: 異世界、湖、ラブ・ハプニング

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三話: 異世界、ヒーローは銀狼。  絵本の悪役にそっくりな巨大な焦げ茶の熊を前に、伊都は死を覚悟し、目を瞑った。  そこに、銀色が走った。  ドンッ!!  巨体と巨体がぶつかり合うすさまじい衝突音が響き、ゴロゴロと焦げ茶と銀色の巨体が地面を転がった。 「な、なに、なんなの……」  胸元を掠る生臭い呼気が遠ざかったのに気づいておそるおそる目を開ければ、焦げ茶と銀色の巨体が地面で揉み合っている。  それは恐ろしい光景のはずだった。だが、伊都は視線をそらせる事が出来ない。  熊を抑えるもう一方、銀色の巨体には何故か奇妙な既視感を覚えたのだ。 「……ジルバー?」  青みがかった、銀色のオオカミ。それは……伊都の大好きな絵本のヒーローにそっくりだった。  銀色の獣は、まるで名を呼ばれた事に気づいたかのように、伊都に理知的な光を灯した瞳を向け、その鼻面をふいと他所に向けた。  見ればそちらには、銀色の獣にそっくりなミニチュアの狼がいるではないか。  それは青い瞳をまんまるにして、フリフリと尻尾を振って、こちらに来いとばかりに伊都を誘っている。  その愛らしさにつられ、恐怖に砕けた腰のまま、這い寄るようにして伊都は仔狼の側までそろそろと移動。  その背後では、戦いが続いていた。  伊都は未だ混乱の最中にあった。  己の身に起こった全てがおかしく、現実から遠い。  なのに土の匂いも柔い皮膚を痛めつける地面の痛みも全てがリアルだ。 「本当に、なんなのっ……」  だから、泥だらけで地を這いながら泣き言を口に出すぐらいしか出来ない。  ほんの数メートルを時間を掛けて移動しきったら、ひょいと大型の仔犬サイズのずんぐりむっくりした仔犬が、伊都のシャツの襟首を噛んで引き寄せた。 「きゃあっ!?」  思わぬ強さに、伊都は小さく悲鳴をあげて地面を転がる。  そこは柔らかい下草の生えた木々の隙間。仔狼は、くりくりした目を伊都に向けて、腰砕けの伊都が無様に転がる様をキョトンと見ている。 「ねえちゃん、おいらについてこい。んっ、何だ走れねぇのか?」  キャンっと高い声を上げ、おそらくは笑った仔狼。  驚くことに、仔狼の口から可愛らしいソプラノボイスが飛び出た。 「こ、仔狼が喋った……」 「仔狼じゃねぇ、おいらにはギャンって格好いい名前があらあっ! しょうがねぇなぁ、にいちゃんの背にでも乗せて貰うか」  彼がキャンキャンと、可愛い鳴き声を上げると、木々の隙間から大きな銀色の影が現れた。  仔狼の声に釣られるよう出てきたのは、大型の成犬サイズの狼で、それはこちらに尻を向け、ぺたりと草むらに座り込むと、背に乗るようにと視線を向けてくる。 「い、いいの……?」  おそるおそる、若い狼に声を掛けると、それは口を開く。 「あんたをあの焦げ熊から兄ちゃんが庇った。庇護されてる奴は、仲間だ。俺らはそれに従う」  若い狼はもまた、当たり前のように少年めいたアルトボイスを響かせ喋った。  伊都はいよいよ、これは夢だと確信した。 (寝て起きたら知らない森。女性に性的虐待を加える熊に、喋る狼。何もかも、ファンタジー過ぎるもの)  夢ならばいっそ楽しんでしまえ。  ええい、ままよと、伊都はその背に乗った。予想より硬い狼の被毛が彼女の手の平を擽る。 「飛ばすぞ、しっかり掴まってろ」  若い狼はまるで伊都の重さを感じて いないかのように腰を上げ、軽快な動きで走り出した。 「にいちゃん、大きいにいちゃんでも、あの焦げ熊はそんなに押さえてられねぇぞっ、急げ急げっ」  キャンキャンと可愛らしい声が急かすのを、うんざりしたようにグルルと喉を鳴らしてスピードを上げる若い狼。  まるで童話か何かの、登場人物にでもなったかのようだ。  伊都は自身の状況についていけないながらも、愛らしい喋る狼の登場に、胸を躍らせていた。  銀色の狼、焦げ茶の熊。大好きな絵本の世界に紛れ込んだと思えば、命拾いした今ならこの奇想天外な状況も楽しめる気がしてくる。  それは置いてきぼりの現実に対する強がりでもあったけれど。  若狼の背に乗った伊都は、激しく揺れる動きに翻弄されながらも被毛をしっかりと掴み締め、転がるように前を走る小さな狼の愛らしい姿に目を細めながら、後ろに流れていく景色を眺めていた。
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