春は、もう

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春は、もう

「春彦はどうしたい?」  返事はわかっていた。  それでも尋ねたのは、気持ちの区切りをつけたかったから。それがお互いに必要だと思ったから。 「別れる」  春彦もどこかで予想していたのだろう。答えはすぐに返ってきた。「一緒に来て欲しい」とか「待ってて欲しい」とか浮かんだ言葉はあったけど、口にはできなかった。今の場所から離れると決めたのは自分だから。我儘は言えない。  春彦も「嵐はどうしたい?」とは聞かなかった。  ほんの数分前まで隣を歩いていた。肩が触れ合う距離にいた。それが今は前後になり、互いの表情を確かめることもできない。足元の影が重なる。それも夜に染まれば見えなくなる。  今この瞬間も、今まで過ごしてきた時間もいつかは消えるのだろう。駅までの道が果てしなく遠くにも、一瞬でたどり着けそうなほど近くにも感じた。  寂しさが広がり、足が重くなっていく。いつもよりかなりゆっくり歩いているのに、距離は変わらない。  春彦が合わせているのだと気づき、同じ気持ちだったらいいのに、と身勝手に思う。  春の冷たい風が吹き、細めた視界の端で何かが揺れる。  ――白い梅の花だった。  春の訪れを感じるとともに、今年はもう一緒に桜を見られないのだと気づく。出会ってからずっと一緒に見てきたのに。  もし花びら一枚ほどの欠片でも春彦に残せるなら。ひどく身勝手な思いが浮かぶ。 「梅の花って気にして見ないと気づけないよね」  桜は毎年気にするのにさ、と真上の枝から春彦へと視線を向ける。俺が足を止めたのに合わせて立ち止まった春彦は、怒る前のような、泣き出す前のような複雑な表情を見せた。  ――消えなければいい。  春彦を傷つけた花びらは、俺の中にも残り続ける。  休憩スペースで手渡された紙コップには、大きな梅干しとお湯が入っていた。一緒に渡された割り箸を手に、ベンチに座る。  二人で黙々と梅干しをほぐす。手のひらに染みる温かさ。口をつければ梅干しの酸味が溶けている。 「梅茶っていうか、お湯割り?」 「お酒ないけどな」  しばらく梅茶をゆっくり味わうと、視線が繋がる。それだけで、同じことを思っているのがわかる。ご機嫌な鼻歌のような名前のお酒。しそ焼酎に梅干しを入れてお湯割りにするのは大学生の頃から二人とも好きだった。 「酒屋寄って帰るか」 「だな」  梅茶のおかげで温まった体のまま、車へと戻る。 「いつものとこでいいよな?」  カーナビを操作しながら尋ねれば「うん」と助手席に座った春彦が答える。  経路を確認し、フロントガラスへと顔を向けたとき、それは落ちてきた。 「……次は桜かな」  ふわりと風のように優しく。  春彦の声が、二人の中に残された痛みに触れた気がした。  昼過ぎに帰宅し、昼食の準備をする。と言っても朝食をしっかり食べたので、軽く摘める程度のもので揃えた。お腹を満たすことよりお酒を飲みながらダラダラ過ごすことがメインだ。スーパーで買ったお惣菜もお皿に盛る。洗い物が増えることより雰囲気優先。春彦ならパックのまま出すだろう。  ダイニングではなく、リビングのローテーブルへ。半分ほど開けた窓からは緩く風が入る。 「お、美味そう」  テーブルの上を片付けていた春彦が、置いたばかりの皿を覗く。 「焼酎っていうよりビールかも」 「確かに」  食器は揃っていても、料理に統一感はない。この緩さは家だからこそ。 「ほい」  買ってきたお酒ではなく、冷蔵庫に常備してある缶を春彦が持ってくる。当然のように二本。 「ありがと」 「のんびり飲もうぜ」  飲みたくなったものをその都度選べる自由。土曜日の昼過ぎは煩うもののない贅沢な時間だ。 「これ美味い」  春彦が食べていたのは、お惣菜ではなく俺が作ったもの。 「初めて食べたけど、何ていう料理?」 「いや、俺も教えてもらっただけで名前までは」  知らない、と続く言葉は音にならなかった。  笑っていたはずの春彦に差した影。日差しのせいではなく、俺の言葉に揺れる春彦の瞳。春彦は「誰に?」とは聞かなかった。離れていた間のことだと察したのだろう。  そっか、と小さな声。春彦が缶へと手を伸ばす。傾けられた先、グラスには少ししか落ちなかった。 「もう一本とってくるわ」  嵐は? と視線で尋ねられる。そこにはもういつもの表情しかない。  離れていた間のことに俺たちは触れない。変えられない過去に傷つく必要なんてないから。今こうして二人でいられるならそれでいいから。けれど、痛みは消えない。ふとした瞬間に胸を鳴らす。  言葉はいらない。説明なんてしなくていい。必要なのは今この瞬間に隣にいるということ。触れ合えるということ。それだけを知っていたい。 「……春彦」  名前を呼び、ソファに置かれた春彦の手に触れる。握り込まれていた指がゆっくりと開き、求め合うように絡まっていく。  嵐、と春彦が呼んだ名前は音にならなかった。  触れ合わせた唇の先で息となって消える。ビールを飲んでいたからか、少し冷たい。それは自分もなのだろう。春彦が「冷たっ」と小さく笑った。  けれどそれもすぐに変わり始める。軽く触れるだけだったのが、重なることを求め、互いの熱を引き出していく。外側だけでは足りない。言葉も視線も手放し、内側を探り合う。呼吸さえ惜しむように隙間を埋め、舌を絡ませる。肌とは違う、普段触れることのない場所で互いを確かめ合えば、湿度の高いそこは一瞬で熱帯へと変わった。 「ん、っ」  漏れた息ごと吸い込む。口腔で灯された熱が胸を通り、お腹の底へと落ちる。体温に炙られ、引き摺り出された欲が指先にまで満ちていた。  繋いでいた手を離したのはどちらが先か。  自分よりも細い腰を引き寄せ、抱きしめる。春彦の両腕が首の後ろに回され、触れ合う面積が広がれば、止めるものは何もない。呼吸も鼓動も混ざり合う。抱えた不安も混ぜて見えなくなればいい。  薄手のシャツにさえ遮られたくはなくて。背中へと回した手で裾を引き出す。できた隙間から素肌に触れれば、薄く汗を纏った体は熱く、手のひらに吸い付いた。  はぁ、と重ねた息継ぎの間に「好き」が零れ落ちる。  春彦の言葉も聞きたくて、唇ではなく頬にキスをする。「俺も」という声はくすぐったそうに小さく揺れる。可愛くて、愛おしくて。離れたくない。もっと、と求める気持ちが膨らみすぎて痛い。  耳の形を確かめるように舌を這わせ、縁を軽く噛む。 「あっ、や……」  閉じるもののない口からは甘い高音が零れ落ち、滑らせていた手に震えと熱が伝えられる。 「……春彦」  自分の息もきっと熱い。 「立てる?」  直接落とすように囁けば、小さな頷きが返ってきた。  ***  シャワーから戻ると、先ほどまでいた寝室とは違い、リビングには夕陽が差し込んでいた。  テーブルは片付けられ、マグカップがふたつ置かれている。 「作ってみた」  と笑いながら春彦が片方を差し出してくれる。隣に座れば、二人分の体重にソファが軽く軋む。 「……梅茶?」  お酒の甘い匂いはない。梅干しはお湯の中でほぐされていた。口をつければ今日覚えたばかりの味が広がる。 「うん、なんか、今はこれかなって」  心地よい疲労感と気だるさ。満ちる春の空気。染み込む温かさにそっと息がこぼれる。  買ったお酒を開けるのは、明日でも明後日でもまた来週でもいい。今急ぐ必要はどこにもない。春はまだ続くのだから。 「……うまいな」 「だろ?」  小さな笑い声が重なり、響き合う。  窓から入り込んだ風が肌を撫でていく。ふわりと柔らかな香りが浮かび、春彦の髪が揺れた。同じシャンプーなのに自分とはどこか違う気がして、鼻先を近づければ白い肌に浮かぶ花びらを見つけてしまう。 「あ」 「ん? なに?」 「……なんでもない」  視線を逸らせば、一瞬にして察した春彦が首を手で押さえる。 「おまえ、なぁ」 「大丈夫。ギリ、襟で隠れるから」  カップをテーブルに戻し、顔を赤くした春彦が睨んでくる。 「……俺もつける」 「いいけど」  きゅっと寄せた眉が可愛くて笑ってしまう。 「できないと思ってるだろ」  そんなことないよ、と隣にカップを並べて向かい合う。  む、と口を尖らせたまま顔を寄せてきた春彦をそのまま受け入れる。このTシャツまだ新しいんだけどな、と思いつつ抵抗はしない。伸ばされた襟ぐり。押し付けられた唇の熱。首と鎖骨の隙間を吸い上げられ、小さな痛みが花開く。 「これでよし」  満足げな顔で離れていこうとした春彦を唇で捕まえる。 「え、ちょ」  驚きごと飲み込み、二人だけの少し早いお花見にしようかな、と胸の中でこっそり呟いた。  春は、もう、痛いだけではないから。
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