私の愛し子

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私の愛し子

「おかぁちゃま!」 黒髪の巻毛を風になびかせて、乳母の所から私に向かって走り寄ってくる愛し子を腕にすくって抱き上げた。むせかえる様な小さな子供の甘い匂いは私をホッとさせる。 「テオ!ただいま。お庭でお母様を待っていてくれたの?ふふ、良い子にしてましたか?」 首に巻きつく小さな手が疲れた私を癒してくれる。柔らかなバラ色の頬に口付けると、楽しげにキャッキャッと声をたてて仰け反った。私は乳母のナンシーに微笑み掛けながら言った。 「テオはどんどん重くなるみたい。最近よく食べるものね?」 私がそう言うと、呆れた口調でナンシーは言った。 「ええ、ええ本当に。エリザベスお嬢様のこれ位の頃は、ここまで召し上がりませんでしたよ。それこそアンソニーお坊ちゃんも。多分テオお坊ちゃんは人並みより大きいので、お父様似なんでしょうねぇ。」 そう言った後に、気まずそうな表情で口元を手で押さえた。私はそんなナンシーに苦笑して、何気なく聞こえるように言った。 「…そうね。そうかもしれないわ。」 私たちがこうしてテオの父親の話になると気不味い空気になるのはしょうがないけれど、だからといって避ける事も出来ないでいた。 元々私の乳母だったナンシーは、伯爵夫人だったお母様が病気で三年前に亡くなる前からずっと、ビクトール伯爵家に仕えてきてくれていた。私にテオが生まれてからは乳母としても、私の良き相談相手としても、特に私を助けてくれた得難い人だ。 お母様が亡くなって一年が過ぎる頃にお父様が後妻を迎えた時も、この貴族界の風習的にしょうがない事だと思いはした。けれど、よもやその後妻のために、幼子を抱えた自分が家を追い出されるとは思いもしなかった。 私は必死な思いでお父様に掛け合って、ナンシーだけは私に譲って欲しいという願いを聞き届けてもらったのだ。 あの時のお父様の複雑な表情は、未だに私の心を抉り出す。 『お前の子供の父親が何処の誰なのかが分からなければ、伯爵家としても世間体というものがある。まして義母になるあれは、その手の事を気にして狭量だ。 お前には済まないが王都から離れた領地で過ごすか、王都に居るのならこの屋敷から出るか、どちらか決めて欲しい。」 それはお父様が、お母様の死と同時に娘の私も、そして孫までも自分から切り離した瞬間だった。 悲しみに打ち震えながらも、私は一歳に満たない赤ん坊のテオの事を一番に考えなければならなかった。 お父様から伯爵令嬢として最低限の体裁がつく支度金を貰って、この王都にこじんまりとしながらも可愛らしい屋敷を得た私は、乳母のナンシーと侍女のマリー、ナンシーの夫である下男のビルと一緒に暮らしている。 そんな私の窮状を知った亡きお母様の姉である、ベルベッタ侯爵夫人のイザベラ伯母様が早々に私の元へとやって来た。そしてお父様に静かな怒りを向けながらも、一方では仕方がない事だと私を諭した。 「エリザベス、確かにビクトール伯爵の貴方に対する仕打ちは酷いものだと思うわ。でもね、貴族界の風習では、貴方のように父親が分からない子供を産んだ貴族令嬢は、産んだ子供を取り上げられて修道院へと送られる事が昔からの習わしなの。 けれども貴方にそれをしなかった伯爵は、貴族としての体面をぎりぎり失うかどうかの瀬戸際だったわ。だから貴方をこれまで手元に置いておいたのは、伯爵なりの愛情だったと考えてはどうかしら。 それに貴方が家を出る事は、ビクトール伯爵家の後継である貴方の弟、アンソニーのためでもあるのよ。」 そう伯母様に教えられて、私は自分の招いた事が想像以上にお父様や、伯爵家の醜聞になったのだと身の細る思いがした。けれども私はここまで来るのに散々涙に暮れていた事もあって、伯母様の顔を見つめて頷いた。 「ええ。伯母様良く分かっております。お父様を困らせてしまった事も、私の無謀な行動が全ての原因ですもの。」 専用の揺籠で機嫌良く手足を動かしている赤ん坊のテオをあやしながら、伯母様はじっとテオの顔を見つめていた。 「この子の瞳は見た事がないわ。…いえ、どうかしら。どこかで…。貴方はこの子の父親の事をまるで話してはくれないけれど、背格好や顔や名前を話してくれても良いでしょうに。 あの時伯爵に頼んで、寝込んでいた貴方に内緒でプレゼントされたというドレスを見せてもらったけれど、とても良い店のものだったわ。だから貴族なのは間違いないんでしょうけど。」 私はあの時に希望と初恋、輝く未来、全てを失ってしまった。私に残されたのは絶望で、だから父親の事は口にするのも苦しくて未だに誰にも説明が出来ないのだ。そんな私に苦笑した伯母様は扇で手の中をポンと叩いて言った。 「…そうして頑固な所は、本当に妹に似ているわ。貴方は見た目も妹そっくりよ。その美しい緩やかに巻いた黒髪と、透き通る様な緑色の瞳。…伯爵も亡くなった妹そっくりの貴方が側に居ては辛いのかもしれないわね。あの人達は本当に愛し合っていたから。 それにしてもエリザベスはまだ二十歳だと言うのに、殿方に守られずに生きていくなんて困ったものね。」 結局、心配するイザベラ伯母様の支援を受けて、テオが二歳になる前から、私は王立学院の研究室の助手の仕事を紹介して貰って週に三日働いている。 お父様からも、伯母様からも援助はして貰っているけれど、それは今後立場のあやふやなテオのために残しておきたかった。だからそれにはなるべく手を付けない様にしたいのだ。 元々あの人の子供を身籠もる前の17歳の時、私は学院でも勉強熱心な事で知られていた。遊びに行っていた天文学の老先生から、18歳で卒業したら研究室の仕事を手伝って欲しいとも言われていた。 それが妊娠、出産と私の人生は運命によって翻弄されて、母の死によって更にその渦は深く回転してしまっていた。そんな時にイザベラ伯母様が老先生に話をしてくれたお陰で、こうしてまた興味深い研究のお手伝いが出来るのだから人生は不思議だ。 老先生は侯爵家出身ながら変わり者で知られている学者気質で、私のこの醜聞にも関心を示さず、以前のようににこやかに私を受け入れてくれた恩人でもあった。 今日もテオをナンシー達に頼んで、午前中研究室へ行ってパーシー老先生のメモを清書したり、研究に必要な取り寄せリストを作ったりしている間に、あっという間に時間は過ぎてしまった。慌てて馬車に飛び乗り、学院から屋敷がそう遠くない事にホッとして戻って来たという所なのだ。 「エリザベスお嬢様、お昼はどうされましたか?お忙しくて、また食べる暇無かったんじゃございませんか?テラスルームにつまめるものを少し用意しておきましたから、少し休憩なさって下さいね。」 そう、侍女のマリーがにこやかに尋ねてくれたので、私は腕の中のテオをそっと床に下ろすと、手を繋いでテラスルームへと向かった。テオは私と同じ柔らかにうねる黒髪を耳の下まで伸ばして、真っ赤な唇を開けて何かモニョモニョと意味のない言葉を並び立てて歌の様なものを歌っていた。 「テオ、素敵なお歌ね。お母様に聞かせてくれる?」 すると可愛くはにかんで、星の浮かぶ様な珍しい青紫の瞳を私に向けた。私の緑色とは違うテオの瞳を見る度に、私はあの日の事を小さくなった痛みと共に思い出す。学院の令嬢たちと繰り出した、あの王都の仮面祭りの日の事を。 正にあの日、私はテオと同じ青紫の瞳のあの人と、後戻り出来ない縁を繋いでしまったのだから。 テオとテラスルームで軽食を摘みながら、私は17歳の夢見る少女があの日から残酷なまでの現実を生きて、大人の女として成長しなければならなくなった、燃える様な恋を思い出していた。 テオが生まれた事は決して後悔などしないけれど、果たしてもう一度同じ過去に戻れるとしたら、私はまた同じ様に行動するのか、それは自分でも分からなかった。それほどまでに現実は厳しく、悲しみと苦しみに満ちていたのだから。
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