最後の

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2023年3月31日 午前10時07分 空見村駅行きのそらみ線に、イワオは乗車した。 幼い頃、空見村で育ったイワオは、廃線になるこのそらみ線に乗って、今は住む人なき生まれ故郷へと別れを告げに向かうのだ。 もう歳をとって、体のあちこちにガタがきている。かつて、空見村の田んぼ道を、裸足で駆け回った足は、杖をついてゆっくりゆっくり歩くのがやっとだ。 大丈夫ですか、と車掌が手を貸してくれて座席に座った。 斜め前の座席の隅に、クマのストラップの忘れ物を見つけたが、イワオは、後で車掌が回収するだろうと放っておいた。 少しして、そらみ線が走り出す。 田舎を走る電車だ。流れていく風景は、あまり変化がない。 それでも、少年時代を過ごした空見村での記憶を呼び起こすには十分だった。 (カズちゃん、どうしとるかなぁ。) イワオには、幼なじみがいた。 カズコという、同い年の少女。 イワオや、他の男子達に負けず劣らず、力強く野山を駆け回った。 相撲をとったり、野球をしたり。 揺れるおさげ髪と、勝気な瞳は、あっさりイワオ少年の初恋を奪っていったのだった。 (……懐かしい。) 夏の日差しの似合うカズコは、イワオの家族よりも早く、空見村を出て行ってしまった。 「イワオちゃん。寂しいことなんて無いからね。そらみ線乗ったら、来れるからね。お手紙出すかんね。約束、やかんね。」 最後の日も、カズコは相変わらずのおさげ髪で、ひとつ違うのは、いつもの勝気な瞳が少し弱々しく滲んでいたことだった。 ただ、もう半世紀よりももっと前の話だ。 イワオの望むように記憶が変わってしまっているのかもしれないとも思う。 あのカズコが、別れを惜しんで泣くなんて、それも自分との別れになど、やはり考えられないのだ。 (やっぱり、そうやろう。良いように変わってしまったんやろう。) 結局、イワオが14の時に家族で空見村を出るまで、カズコが空見村に戻ってきたことは無かったし、手紙だって来なかった。 彼女は、彼女の人生を生きているのだろうと、故郷を離れる時、地広見行きのそらみ線で思った。 彼女は、今どこにいるのだろうか。 きっと嫁に行ったろう。 まったく遠い場所に暮らしているのかもしれない。 このそらみ線が廃線となることも、きっと知らないのかもしれない。 「次は、空見村〜、空見村〜。お出口は…」 また、ゆっくりゆっくり、杖を着いて歩く。 電車を降りた。 他にも、空見村駅に降りる乗客が割といるようだ。 懐かしい駅舎は、イワオが少年ではなくなったのと同じ分、当時より歳をとっていた。 ゆっくりゆっくり駅舎に入る。 「イワオちゃん。来たよ。」 ふと待合室の隅の長椅子に、おさげ髪の勝気な瞳の少女が座っていたような気がした。 イワオもゆっくりとその長椅子に腰掛ける。 そっと肘置きの表面を撫でた。 「懐かしいなぁ、カズちゃん。よお、ここでみんなと遊んだなぁ。」 イワオの独り言が、ぽつりと駅舎に落ちた。 次のそらみ線が来るまで、暫くここにいよう。今日は最後の日だからと、立派なカメラを持った人が多くやってきているらしいし、いつもより本数も多い。 「ただいま。」 最期に、ここに来てよかったと、イワオは思った。
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