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一八八九年に横須賀線が開通し鎌倉周辺は別荘地や住宅地として注目され、華族の別荘が多く建てられた。漆原清眞男爵の令嬢・令子は、避暑のため鎌倉は材木座にある別荘に来ていた。
ある日、付き添いの女中チズを浜辺に残し、一人小舟に揺られまどろんでいた。令子は裕福な男爵家の跡取り娘だが、地味で小太りで美しくもなく平凡な容姿。年の近いチズの方が格段に美しく、一緒に並ぶと令嬢に間違えられることもある。
だが、令子は笑って間違いを正せる寛容な心を持ち、己を良く知る賢い娘だった。今も浜辺で一人佇むチズに、行き交う男たちが声をかけていく。自分もチズのように美しかったら、こんな風に一人寂しく海の上にいなかっただろう。
「あら?」
ふと見回すと、だいぶ沖に出ている。小舟は使用人が砂浜に杭を打ちつけ、縄で繋いでいるはず。そう安心していたのだが、どうやら縄が外れているようだ。慌てて体を動かした、次の瞬間――
船底に置いてある縄に足を取られ、令子は海に放り出されてしまう。泳げないわけではないが、海水が冷たく海流が早かった。そのため、怯んだ瞬間に波に飲まれてしまう。
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