その1

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その1

 散歩から帰って朝食が出来るまでの間、自分の部屋で新聞を読むのがその老人の日課となっていた。  読む、と言っても、このところずいぶんと目も悪くなって、大きな見出しを追うのがやっとなのだが、しかしそれは老人にとってあまり重要な問題ではなかった。ちゃぶ台の前にあぐらをかき、お茶をすすりながら新聞を広げる。まるで絵に描いたような老後の生活を送る自身の姿に、彼は満足していたのだ。そうして後から起き出して支度をする息子の気配や、息子の妻が朝食を作る音や、孫の元気な声を聞いているのが、彼の楽しみであり、朝の日課となっていた。  老人の部屋はリビングの奥にあった。息子夫婦がリフォームして建てたこの家で唯一の畳敷きの部屋、そこが老人の居場所だった。  まだ新しいイグサの匂いと、清々しい朝の空気を満喫し、そうして1時間もすれば、息子の妻の美日子さんが、朝食が出来たと呼びに来るのだ。  しかし・・・今日はなかなか声がかからない。    準備に手間取っているのだろうか? “少し腹が減ったな・・・”  そう思った時、どこからか、とことこと足音が近づいて来た。が、それは美日子さんのものではない、もっと軽い足音だ。  その足音は障子の向こうでピタリと止まると、伸ばしたゴムを弾いたような、ストリングスの声で鳴いた。 「ニャ~」  猫のビースケだ。  老人は面倒くさそうに障子を開ける。すると行儀よくお座りしたグレーの毛並みの大きな瞳と目が合った。  猫は「ニャ~ニャ~」と甘えた声を上げ老人をじっと見上げている。  長年一緒に暮らしている老人には、それがエサの催促だとすぐに解った。しかし、騙されていけない。 「おい、ビースケ、お前は飯を食ったろ」  ビースケと呼ばれた猫は老人の言葉に知らん顔で、くるりと反転すると、廊下の方へ2、3歩あるき、立ち止まり、振り返ってまた老人を見つめた。  老人は眉間のシワをさらに深くして「まったく・・・餌ならさっき・・・散歩から帰ってきた時、ワシがあげたじゃないか、忘れたか?」と言った。  老人がついてこないと分かると、ビースケは少し怒ったようなダミ声で繰り返し鳴き、次いで老人のズボンに前足をかけ、さらにバリバリと引っ掻き始めた。
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