2人が本棚に入れています
本棚に追加
「頭が割れそうなぐらい痛い。」
そう呟いた彼女は、全く苦しそうではなかった。何なら、美味しそうには見えない病院食を口にしながらテレビを見ているから、いつもよりも元気そうに見えた。
「死ぬかもね。」
彼女は振り返って、わざわざ僕の目を見ながら笑えないことを言う。僕が何も言えなくなったのをいいことに、楽しそうに口角を上げた。
淡いピンクのカーディガンを羽織って少し背を丸めている彼女は、病人には見えない。
頬もこけていないし、痩せ細っていないし、口数も変わらないし、背景が病室じゃなければ、どこにでもいそうな女性に見える。
ただ、化粧をしていないからよく分かる、白い肌と真逆の目の下の濃い隈だけが、彼女を心配する理由になる。
「もう帰ったら?」
しばらく口を噤んでいると、彼女は吐き捨てた。
「さすがにその言い方はないでしょ。」
「はは、いいじゃん。別に。」
元恋人で現在は友人。僕らはそういう関係だ。けれど、そんな風に言うのは彼女だけで、僕の恋心は今も燻ったままだ。
病気になったから別れよう、と言ったのは彼女だ。僕は咄嗟に、友達になろう、と答えた。病気になった、というところはいまいち理解できていなかった。
数か月前に僕は恋人から友人に降格した。けれど、彼女の態度はあまり変わらない。肌の触れ合いがなくなっただけで、軽口はなくならなかった。とても、安心した。
元恋人がお見舞いに何度も行くのは格好悪い気がするけれど、友人がお見舞いに行くのは当然だと思う。看護師さんや同室のおばあさんたちに関係を聞かれても、躊躇いなく答えられる。本当は、少しだけ躊躇してしまうけれど。
数か月の間、僕は毎日のようにお見舞いに来た。
たまに花やスイーツも買ってくる。けれど、彼女は僕の前でそのスイーツを食べないし、次の日に来院すると机の上に飾っておいた花はなくなっている。
それを見るたびに胸が痛むけれど、だからって諦めるわけにはいかない。
彼女が元気になって退院したら、もう一度告白する。
いつになるかは分からないけれど、そのいつかが来るまで僕はずっと彼女の傍にいるつもりだ。どんなに美しい人が僕に告白したって、どんなにいい子が僕の腕を掴んだって、僕は彼女だけを愛する。
いつの日か、それを伝えると笑われてしまった。馬鹿みたい、と。けれど、そっぽを向いた彼女の耳が赤く染まっていた。だから、ずっと彼女から離れられない。
「ねえ、薬飲むから出て行って。」
彼女の少し茶色がかった目が、僕を見る。
僕は頷いて席を立つ。
彼女は薬を飲む姿を僕に見せようとしない。何の薬を飲んでいるのかも教えてくれない。それに、彼女が何の病気に侵されているのかすらも僕は知らない。
聞いても聞かなくても教えてくれない。それは付き合っていた頃から変わらないことの一つだ。
そもそも病気になったと伝えられたのはもう入院が決まっていた時だった。そういうとても大事なことから、好き嫌いなどの些細なことまで。彼女はいつだって教えてくれない。しつこく聞いてみると、彼女は簡単に心の扉を閉めてしまう。そこすらも愛おしいと思うのは重症だろうか。
裸を見られるのより恥ずかしい、と言って彼女は絶対に僕の前で薬を飲まない。裸はちゃんともっと大事にしないと、と反論したら睨まれた。その言葉には明らかな恋心と独占欲が含まれていた。
休憩室の自動販売機でコーヒーを買う。小さな窓の外は真っ暗だった。パイプ椅子に腰を下ろして、深くため息を吐いた。腕時計をちらりと見る。時刻は午後七時四十分。あと二十分もすれば、顔見知りの看護師さんがやって来て言うだろう。面会時間終了です、と。
携帯を確認すれば、同僚からメールが入っていた。飲み会をするから来い、との催促メールだった。返信はせず、画面を暗くした。
少しの間、目を閉じているとすぐに眠りの世界に吸い込まれてしまいそうだ。
まだ終わっていない仕事や読み込まないといけない資料がある。
面会が終わったら、いったん会社に帰ろう。そのあと、まだ余裕があるなら飲み会に参加すればいい。それから家に帰って洗濯物を取り込んで。
頭の中で予定を立てるだけで、気分が沈む。
平日、彼女に会いに来るのは夜の七時から八時。その時間は彼女の食事時間で、その後に必ず薬を飲むから、会えるのは実質五十分、いや、それより短いかもしれない。
不器用な性格が災いして、うまくやりくりできず、仕事を溜め込んでしまう。残業代が跳ね上がったのもここ数か月の話だ。
五十分になっていることを腕時計で確認して、あくびをかみ殺しながら、彼女の病室に入る。
「・・・・・・入っていい?」
仕切りのカーテンの反対側から呼びかける。「いいよ。」とぶっきらぼうな声が返ってきて、俺はその中へ進む。
彼女はテレビに夢中なようで、俺を一瞥することもしない。
芸人が楽しそうに笑うバラエティー番組を二人並んでなにも言わず見ているだけで、すぐに時間は過ぎる。
看護師さんが顔を覗かせた。
「あの、面会時間終了しますので・・・・・・。」
見慣れた看護師さんと目が合うと、彼女はまたお前か、と言いたげな表情になる。
「ああ、分かりました。じゃあ、未沙ちゃん。またね。」
僕の声にようやく彼女はこちらを向いて、けれどそれも一瞬で、またテレビに目を向ける。
看護師さんが気まずそうに目を逸らしたので、苦笑いをこぼした。
「原田くん。おかえり。帰ってきたばっかりで悪いけど、ちょっといい?」
オフィスの明かりはまだついていて、手の甲をつねることで眠気を蹴散らしながら入ると、さっそく名前を呼ばれた。
部長だ。初めて会った時はまだ課長で、その頃より頭が薄くなって体積が大きくなったように思う。どうやらそのことを女性社員にトイレでネタにされているらしい。
悪い人ではないと思う。彼女のお見舞いをどうしてもしたい僕の無茶なお願いを聞き入れてくれた。その分、多くの仕事が僕に回ってきたけれど。
甘すぎることも厳しすぎることもない部長が、少し強張った表情で僕を呼ぶ。
無意識のうちに背筋が伸びた。急いで駆け寄ると、部長は「キミの事情は分かっている、分かっているが。」と話した。
「緊急の話なんだ。来週から一週間ほど大阪に出張へ行ってほしいんだ。」
一週間、大阪、出張。並べられた単語にクエスチョンマークを浮かべる。
人の頭は受け入れられない話を理解しないように作られているらしい。
「キミが今まで担当したどんな仕事よりも大きな仕事だ。これが成功したら、キミの給料は上がるかもしれないし、キミは管理職になりやすくなるかもしれない。」
かもしれない、なんて無責任な言葉を並べて、部長は虚無が現れ始めた僕から逃げようとしている。
「・・・・・・一週間で本当に済みますか?」
僕が独り言のように小さな声でそう言った途端、部長の表情が引きつった。
「いやあ、あははは。その、ねえ?」
一生懸命に目を逸らす部長を見て、ああ、僕はいい上司を持ったな、と思う。こんな生意気なことを言っても部長は怒らない。普段から部下のフォローを怠らないし、怒号よりも先に気遣いの言葉が出てくる。やっぱり部長は少し甘い。どうして女性社員に親指を下げられているのかは分からない。とんでもないセクハラ野郎には見えない。思いやりに溢れた人のように見える。けど、たしかに肌が覗く頭頂部やぽっこりと出たお腹は気になるけれど。
これは仕事だ、仕方ない。これで僕はお金をもらって生活をしているんだ、文句を言うな。
自分に言い聞かせて「頑張ります。」と答えた。部長の表情が少し柔らかくなった。
デスクに戻り、すぐに携帯の電源をつけた。『急な出張が入ってしばらくお見舞いに行けない、ごめん』とメッセージを彼女に送る。すぐに既読がつき、数分待ってみたが、返信は来なかった。
取引先との相性が悪く、出張は結局二週間半に伸びた。それでも、最終的にはうまくまとまった。サラリーマンとしての僕は合格だろう。けれど、彼女に恋をする者としては間違いなく失格だ。
彼女からのメッセージは一通もなく、電話にも出てくれなかった。
元々過度な連絡を好まない人ではあるけれど、さすがに一度ぐらいは反応してくれてもいいだろう、と思ってしまう。
携帯を片手に、彼女がいる病院へ向かう。スーツだから走りにくい。信号を待つ数分でさえ惜しい。
部長にはアイコンタクトで伝えたつもりだ。このワガママは許してくれ、と。だって僕は成功したんだから、と。同僚の呼び止める声もすべて無視した。
夕日がとても綺麗だった。子どもや買い物袋を持った人が多く行き交う中を、焦る気持ちだけで何とかすり抜ける。
タクシーでも呼べばよかった、と後悔する。いつもは会社から電車で五分の病院だが、今は財布も持たずに出て来てしまったので、とにかく走るしかない。
嫌な予感がした。僕の世界をつくる一つのピースが欠けてしまったような気がした。端のピースなら気が付かなかったかもしれない。けれど、中心の、一番真ん中のピースが欠けてしまった気がするのだ。
独特な匂いと緊迫する雰囲気にはいつまでも慣れないし、慣れたくない。
上がるエレベーターが着くことすら待てずに、階段を駆け上がる。
彼女がいる三階に着いたら、看護師さんや他の患者さんに睨まれない程度の速さで歩く。
三〇六号室の扉を開いた。
いつも眠っている右前のおばあさんが起きている。周りに可愛らしい花が咲いていそうなほどふんわりしていて、目が合うと微笑まれた。
左前のベッドはずっと空いている。
その奥にあるカーテンはいつもと違って開いていた。
恐怖と焦燥とすこしの好奇心で覗いてみる。ふぇ、と間抜けな声が漏れた。
彼女はどこにもいなかった。あるのは枕もシーツもない空っぽのベッドだけだった。彼女がいつも飲む水も携帯も花瓶もない。
未沙ちゃんがいなかった。驚きを隠せないまま、あの人を見つけるために急いで病室を出る。
未沙ちゃんは絶対にどこかにいるはずだ。もしかしたら、病室が変わったのかもしれない。そういうことは珍しくないとだれかが言っていた気がする。未沙ちゃんは大事なことを何一つ教えてくれない。だから、僕は未沙ちゃんの身近な人に聞かなければいけない。その時の恥ずかしさと悔しさと抑えきれない興味を未沙ちゃんは知らない。今日も聞かなければいけない。
廊下で見慣れた後ろ姿を見つけて、背中に急いで手を伸ばす。
「あの!」
大きな声は静かな病院には似合わなかった。通り過ぎる車椅子のおじいさんが僕を睨んだ。
彼女は振り返った。「病院ではお静かにお願い―――」と彼女の言葉を遮る。
「未沙ちゃんは、小林未沙はどこにいますか!」
彼女の細い肩を掴んで叫んだ。そして、心の揺らぎを抑えようとする身体が呼吸を強要する。はあはあ、と荒く息を吐き出す。
そうしていると、だんだん視界がじわじわと歪んでいく。
「ご存知ないんですか。」
彼女の声はとても淡々としていて、感情がなにも読み取れなかった。
「休憩室へ。わたしもこれから休憩に入るので。」
いつもの自動販売機でいつものコーヒーを買う。彼女はカフェラテを買った。すでに呼吸は落ち着いていた。
「回りくどいのも嫌なので、簡潔に。小林さんは転院されました。この病院の技術ではもうご病気は治せないので。治す意志はなかったようですけど、主治医が強く後押ししました。ちなみに、都内の病院ではありません。どの病院なのかは誰にも言わないようにご本人から強く言われています。以上です。」
彼女があまりに冷めた声で話すから、僕はやっぱり受け入れられなかった。まるで知らない人のことを聞かされているような、そんな気持ちになる。けれど、これは知らない人の話なんかじゃない。どうでもいい人の話でもない。
とても大切で、どうしようもなく愛おしい人の話だ。
「また、教えてくれなかった。」
はは、と笑ってみせたが、すぐに襲ってくる虚無で涙がこぼれた。一粒頬から流れ落ちると、もう涙は止まらない。
「そうですか。それでは失礼します。」
このタイミングで去っていくのは僕への気遣いからだろうか、それともどうでもいいからだろうか。きっと後者だろうけど、もし前者ならまだここにいてほしかった。
泣き声も抑えられなくなってくる。
ここは共用スペースだから他の人もやってくる。だから、早くこの涙を、思いを止めなければいけない。
分かっているけれど、どうしても無理だった。
ずっと握りしめていた携帯が震えはじめる。
ひっ、と息を呑んで、画面を確認する。発信元は、今どうしても連絡が欲しい人からではなく、部長からだった。
また涙が溢れて、肩を揺らしながら電話に出る。
「原田くん?もしもし?原田くん、どうしたの?」
声にならない音が漏れるばかりで、答えることができない。
僕が今、こんなに泣いているなんて未沙ちゃんはきっと知らない。いい年の男性しゃくり上げて泣くことの重大性だってきっと知らない。けれど、それは別に知らなくてもいいことだ。
でも、僕の場合は違う。知らないといけなかった。知っていたかった。
嫌われてもいいと覚悟を決めて、もっと深く足を踏み入れたらよかった。
何の病気かも知らない、飲んでいる薬の数も知らない、どれだけ病気が重いのかも知らない、今未どこにいるのかも知らない、連絡が繋がらない理由も僕になにも教えてくれなかった理由も知らない。
知らないことばかりだ。
きっと嫌われることを恐れて踏み込まなかったから、未沙ちゃんは僕を置いて行ったのだろう。
後悔が溢れて止まない。
幸せな未来を妄想してばかりで今を直視することを避けていた。
未沙ちゃんの好きなチーズ入りのハンバーグを二人で並んで作って、未沙ちゃんが好きなバラエティー番組を見て二人で笑う。その後は二人で隣に寝転んで、なんてことばかり考えていた。そんな未来は、今の未沙ちゃんを知らなければ手に入れられないことに僕は気付けなかった。
ごめんなさい、かすれたこの声はもういなくなってしまった彼女に届くだろうか。いや、きっと無理だ。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
部長が電話の向こう側で戸惑っている。
小さな窓の外がゆっくりと暗くなっていく。終わりだ、と言われているようだった。
それなら、どうか生きて、笑って、幸せになって。
叫んだ僕の声はやっぱり掠れていて、涙はまだ止まらなかった。
最初のコメントを投稿しよう!