870人が本棚に入れています
本棚に追加
/27ページ
7★
会いたいです、とだけ告げた葉月に、帝はすぐに、いいよ、と答えてくれた。午後六時を越えたばかりだったから、もしかしたらまだ仕事中だったのかもしれない。それでも帝は七時前には葉月の待つカフェに来てくれた。
「ごめんね、待たせて。何か、あった?」
もしかしたら自分の声が切羽詰まっていたのかもしれない。席にもつかずに帝は葉月に優しく聞いた。葉月がそれに小さく頷く。
「……ここだと話しにくいだろうから、移動しようか」
帝が葉月に手を差し伸べる。葉月はそれを自然に握って立ち上がった。その手の優しさも力強さも前から知っているような不思議な気持ちのまま、葉月は帝に手を引かれ、カフェを出た。
歩きながらの方が話しやすいかな、と言った帝は、葉月を大きな公園へと連れてきた。人影はまばらにあるが、距離もあるので会話は聞こえない。帝の気遣いが本当に嬉しかった。
「あの……おれ、結婚させられるかもしれなくて……」
「……え?」
遊歩道をゆっくりと歩きながら葉月が言葉にする。帝はそれに驚いた顔を向けた。
「今日、母に呼び出されて実家に行ったら、そんな話をされて……急に言われてもおれには受け止めきれなくて、逃げてきちゃいました」
オメガではなくせめて男として生きろと言われたことは伏せた。周りにはアルファだと言って生活しているのだから、帝も本当の葉月の性は知らないはずだ。
「市倉くんの記憶がなかなか戻らないせい?」
「……多分」
「心配なのはわかるけど、無理にそんな大事な事を決められるのは嫌だね。それで、連絡くれたんだ」
葉月が頷くと、大変だったね、と帝が葉月の髪を撫でた。温かい手が心地良くて、葉月の心は少しずつ凪いでいく。
ただ帝に会って話しただけなのに、さっき感じた悔しさも恐怖も溶けていく気がした。
「うちの家族は……やっぱりおかしいんです」
「やっぱり?」
「……両親は小さい時から忙しくて、全然構ってくれなかったのに、成績だけは気にしていました。兄は、両親の代わりをしてくれたけどそのせいか過干渉で……」
番になれ、なんて言われるまでになってしまった――それは帝には言えなかった。
葉月の言葉が止まったのを感じて、帝がそっと手を離してから、うちはね、と口を開いた。
「僕が男でも女でも、アルファでもオメガでも歯科医になることが決められていたんだ。家を継ぐことが生まれる前から決められていたからね。それ以外は自由だったけれど……将来に希望なんかなかったよ。アルファの家系って、そういうこと、多いよね」
なんでも持っていて幸せそうに見える帝でも、そんな思いを抱えて生きていたのかと思うと安心する。そんな葉月の気持ちが表情に出ていたのか、帝がこちらを見て微笑んだ。
「ホントに嫌だったけど、この仕事に就いたおかげで出会えた人もいるし良かったと思ってる。でも、市倉くんが知らない誰かとの結婚は嫌だと思うなら、抗うことも大事だ。記憶はなくても大丈夫だってところを見せれば、家族の考えも変わると思うよ」
「そう、でしょうか……」
これまで家族の逆鱗に触れないように距離を取って過ごして来た。ある程度は諦めて飲み込んで、妥協点を見つけて生きてきた。両親は自分に過度な期待はしていなかったから、これまでは上手くやって来たと思う。
「うん。出来ないこともあると思うし、不安だって大きいと思う。でも、頑張ってみてもいいと思う。僕も協力するよ」
帝の言葉に葉月が頷いた、その時だった。ぽつり、と頬に雫が当たり、葉月は空を見上げた。
「……雨?」
確かにさっきから降りそうな天気ではあった。雲を見つめる葉月の頬にもう一粒、雫が弾ける。
「市倉くん、本降りになる前に車に戻ろうか」
隣からそんな声がかかり、葉月が帝に顔を向ける。帝はそんな葉月に優しく笑んで、そっと手を伸ばした。その指先で葉月の頬を撫でる。雫を拭ってくれたようだが、その仕草が大人でカッコよくて、葉月はドキドキしてしまって顔を伏せた。
帝は友達だ。自分には恋人がちゃんと居たのだから、帝に対してこんなときめきを感じることはなかったのだろう。それでも今感じたドキドキは本物だ。
帝に対して記憶をなくす前とは違う感情を抱いてしまっているのではないかと思うと、なんだか少し切なくなる葉月だった。
最初のコメントを投稿しよう!