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冷えると大変だからもう帰ろうか、と帝に言われ、葉月はそのまま帝の車でマンションへと戻った。
「付き合ってくれて、ありがとうございました」
車を降り、葉月が頭を下げると、帝が頷く。一瞬、その表情が歪んだように見えたが、すぐにいつもの端正な顔に戻っていた。
「また、いつでも連絡して。僕でよかったら、どこでも付き合うから」
優しい言葉に葉月が頷くと、帝は、おやすみ、とドアを閉めて車を走らせた。そのテールランプが見えなくなるまで見送ってからマンションのエントランスへと入ると、そこに、葉月、と声が掛かった。
驚いて顔を上げた葉月の視界に居たのは卯月だった。
「……兄さん……」
壁にもたれて待っていた卯月の姿に、葉月の体が凍った様に固くなる。
「あいつに会うな、と言ったはずだ」
「……おれは、子どもじゃない。もう兄さんの言う通りにはならない」
ぐっと両足に力を入れ卯月を見やる。そんな葉月を見つめ返した卯月がこちらに近づいた。
「……そうだな。子どもじゃない。だからこそ、手元に置きたいんだよ」
卯月がそっと葉月に手を伸ばす。びくり、と葉月の肩が震える。
「帰っておいで、葉月。何も不自由のない生活をさせてあげるから。俺と番えば、幸せになれる」
卯月が耳元で囁く。葉月はそれが怖くて卯月の手を振り払い、階段室のドアを開けた。そのまま階段を駆け上がる。自分の部屋のある階の一つ上まで来てから廊下へと戻った。エレベーターの前でその表示を見上げる。エレベーターが動いている様子はなくて葉月はほっとしてその場にしゃがみ込んだ。階段も後を追うような足音はなかったし、どうやら卯月はここまで追って来るつもりはないようだ。きっと、自分がどんなに逃げてもいつか卯月の元に戻ると信じて疑っていないのだろう。
「……疲れた……」
大きくため息を吐いて目を閉じる。その瞼の裏に浮かぶのは帝の優しい笑顔だった。それに驚いて葉月が目を開ける。どうして帝の顔を思い出したのか分からない。けれど、帝の『大丈夫』と言ってくれるその優しい声と顔を思い出すと不思議と落ち着いた。
「……大丈夫……」
呟いて、葉月は立ち上がった。エレベーターに乗り一つ下に降りて自分の部屋へと帰る。暗い部屋の灯りをつけると、上着のポケットに入れていたスマホが震えだした。取り出すと、昨日行った書店の電話番号が表示されていた。何かあったかと思い、葉月はスマホの着信を取り、はい、と応じた。
『あ、市倉くん? 昨日書店で会った袖崎です』
お疲れ様、という言葉に葉月は、お疲れ様です、と返す。すると電話の向こうから、くすりと笑う声が聞こえた。
『こういう挨拶すると、市倉くんの記憶がないなんて、嘘みたいだね』
きっと自分は日常的に袖崎と「お疲れ様」という挨拶を繰り返していたのだろう。けれどなんと答えていいか分からず言葉を返しあぐねていると、袖崎の方から、あのね、と声が届いた。
『もし、体の調子が良ければ、なんだけど、数時間でもいいから戻ってこない? やってるうちに仕事の勘も戻るかもしれないでしょ?』
店長もいいんじゃないかって言ってくれてるし、と言われ、葉月は驚いて、え、と返した。今の自分が戻っても迷惑しか掛けない。少し迷っていると袖崎は、迷うよね、と笑った。
『今の状態で外に出るのは不安もあると思うけど、リハビリになるなら、いいと思うの。私も、市倉くんと働けるなら嬉しいし、正直人手があると助かるし』
「おれで、勤まるでしょうか?」
『それは大丈夫よ。市倉くん優秀だったから』
それはお世辞なのかもしれないが、もし戻ってもいいというなら、それは葉月にとっては嬉しい事だ。正直、この部屋に籠っていても何も思い出せないし、毎日を無駄にしている気さえしていた。数時間でも働けるのなら、ようやく自分も社会の一員という気持ちにもなるだろう。
「じゃあ……お願いしていいですか?」
『もちろん! 店長と相談して詳しい事決まったらまた連絡するね』
「はい。袖崎さん、ありがとうございます」
『……うん。じゃあまたね』
袖崎の言葉が優しくなる。それに葉月は、はい、と答えてから電話を切った。
「……上手くできるといいな……」
スマホの画面をスリープにして部屋の中へ入る。相変わらず殺風景な部屋の真ん中にぺたんと座り込む。リビングにも物がなくて、どうしてこんなにコンパクトに生活していたのに、二部屋もあるところに住んでいたのだろう。葉月も昔から物持ちがいい方ではないが、ここまで片づけられるタチではない。だから物が溢れているのなら、二部屋の意味も分かる。けれど、自分はどうやらこの三年の間に片付けが出来るようになっていたらしい。そんな自分がこんな部屋に住むだろうか――そう思うと、なんだか自分の部屋ではないような気がして、少し居心地が悪い。
葉月は立ち上がってダイニングテーブルへと向かった。そこでふと、足元に視線を向ける。
「……へこんでる?」
リビングの中央に敷いているラグの端が四角くへこんでいる。よく見ると、反対の端にも同じようなへこみがあった。
何かを置いていた跡だろう。たとえば、ソファとか……葉月はそこまで考えて空間を見つめる。ふと、頭の隅に、白いソファが浮かんで驚く。そのソファに誰か人影が見えたが、結局頭痛と共にもやがかかり、葉月はめまいに耐えながらダイニングチェアに座り込んだ。
これはもしかしたら自分が忘れている記憶の一つだろうか――そんなことを思いながら葉月はめまいをやり過ごすように目を閉じた。
ここに自分じゃない誰かが居た記憶。恋人が居たというのだから、その誰かは恋人なのかもしれない。けれど、一瞬見えたその人影は、女の子には見えなかった。
「友達……とか……?」
あり得ない話ではない。葉月は次に牧野と会った時に聞いてみようと思い、小さく息を吐いた。
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