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 それから数日後、葉月は書店のカウンターの内側でレジ操作を教わっていた。 「――で、書籍検索するには、こっちの画面立ち上げれば入力画面になるから、問い合わせにはこっちで対応してね」 「はい。とりあえず分かりました」  葉月はメモを取りながら袖崎の言葉に頷いた。 「まあ、市倉くんならすぐ取り戻せるでしょ。アルファなんだし」  元が優秀だからね、と言われ、葉月が苦く笑う。どうやら自分はここでも性別を詐称しているらしい。まあ、家が許すはずなかったのだろう。診断書なんて、母がいくらでも書ける。 「今はとりあえず三時間だけだけど、慣れたらまた担当戻ってもらうって、店長の話だから、頑張って。あ、でも、無理はしないで」 「大丈夫です。頑張ります」  葉月の答えに袖崎が嬉しそうに頷く。それを見ているとなんだかこちらも嬉しくなる。自分が復帰することで喜んでくれる人がいることが純粋に嬉しかった。 「あ、お客さん。市倉くん、やれる?」  カウンターに歩み寄る一人の男性を視界に捉えた袖崎が葉月に問う。葉月は頷いた。  その頷きを見て袖崎が、いらっしゃいませ、と微笑む。葉月も同じように声を掛け、男性が手にしていた本を受け取る。会計はスムーズに終わり、店の紙袋に本を入れて葉月は少しぎこちなく手渡した。 「ありがとうございました」  葉月が頭を下げる。そんな葉月に男性も、ありがとう、と残してきびすを返していった。  その瞬間、葉月の胸がじわりと温かくなった。  退院してから葉月は誰かに喜ばれたことがない。いつも誰かに迷惑をかけて、心配をかけて過ごして来た。こんな自分にも何かできるかもしれない――そう思うとワクワクさえする。  ありがとう、なんて他愛もない言葉だ。けれど、今はすごく嬉しかった。きっと過去の自分もこの瞬間が嬉しくて楽しくてこの仕事をしていたに違いない。 「全然大丈夫ね、市倉くん。今日はこのままレジ入ってもらおうと思うんだけど、よさそう?」  袖崎の言葉に葉月が頷く。 「はい。おれ、レジ作業好きな気がします」 「……記憶がなくても市倉くんだもんね。やっぱりレジ好きなんだね。市倉くん、よく言ってたよ、レジはたくさんのお客さんと話せるから好きって」  まあ裏作業したくないからかもしれないけど、と袖崎が笑う。それから、何か困ったら呼んで、とだけ言ってカウンターを離れていった。 「……記憶がなくてもおれ、か……」  確かにその通りだ。覚えていなくても、好き嫌いとか、感じる気持ちは、自分だけのものだ。記憶は関係ない。  そう思うと、少し気持ちが軽くなった気がして、葉月は小さく微笑んだ。  仕事に復帰して一週間が過ぎた。母親には、仕事に復帰したことをメッセージで伝えていたが、それは既読になっただけで、様子を窺う言葉が返ってくることもなかった。葉月にとってこれは普通のことだ。その日のうちに既読になっただけ、少しは気にしているのだろう。だから、その日、母からメッセージが入っていたことは、とにかく驚いたのだ。 『仕事が終わったら家に寄りなさい』  たった一言ではあるが、こんなことを言われたことはない。定期健診をすっぽかしても何も言わずに薬だけを送りつけて来るというのに、よほどのことがあったのかと思うと、葉月はいつもよりも緊張して、実家へと赴いた。  家の玄関前で深呼吸をしてから、鍵を開ける。まだ夕方だが、玄関には明かりが点いていて、葉月が来ることを待っていたようだった。
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