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「おかえり、葉月」  玄関で靴を脱いでいると、そんな声が届き、葉月はびくり、と肩を揺らした。廊下の向こうからこちらに近づいてくるのは卯月だ。嬉しそうに微笑むその顔が怖かった。 「た、だいま……兄さん」 「仕事、戻ってるんだって? 辞めてもいいって言ったのに」  靴を脱いだ葉月に卯月が手を差し伸べる。葉月はその手を取らず、歩き出した。 「辞めない。おれはあの仕事が好きなんだ」  葉月がはっきりと答えると、卯月は、何も関心がないように、ふーん、と答えてから葉月の後ろを歩き出した。  葉月がリビングに入ると、そこには珍しく母が居た。呼び出したのだから当たり前なのだが、いつもいない人がいるというのは、なんだか不思議だった。 「おかえり、葉月。急に呼び出して悪かったわね。今月は今日しか休みがなくて」  ソファから立ち上がった母に、そう、と答えてから、その隣に座っていた人物に視線を移して、葉月は首を傾げた。母の隣には若い女性が座っていたのだ。もしかしたら、自分が忘れているだけで、自分と何か関係のある人なのかもしれないと思うと、こちらから言葉を掛けることは出来ない。 「葉月もこちらに座りなさい。紹介するから」  母がキッチンで紅茶を淹れながら言う。自分が忘れていたわけではないと思うと少し安心した半面、どういう方なのかと益々不思議になる。  葉月は彼女の向かい側のソファに落ち着く。視線を感じて顔を上げると、向かいで女性がにこりと微笑んだ。顔はもちろん、佇まいもキレイで、怜悧そうだ。 「彼女、卯月の同僚の多木さん。葉月と同じオメガなんだけど、とても優秀なんですって」  兄の同僚ということは弁護士なのかもしれない。それは確かに優秀だ。色々な業界で雇用差別がなくなってきているとはいえ、まだオメガの地位は低い。 「……卯月の弟の葉月です」  紅茶を淹れた母が戻ってくると同時に葉月が挨拶をする。それから母に視線を向けた。どうしてこの人を自分に紹介しているのか、それが知りたかった。  母はその葉月の訴えを汲み取ったようで、あのね、と話ながら葉月の隣に座る。 「彼女とお付き合いしてみない? 葉月」 「……は?」 「葉月はオメガだけど、市倉家の人間なの。せめてオメガとして生きるんじゃなくて、男として生きて欲しい……そして、彼女がアルファの子を産んでくれたら、もう肩身の狭い思いもしなくていいのよ」  母はいつになく優しくそう説いた。けれど葉月にはそれがひとつも理解できなかった。  確かにこの家に居るときは、上手く呼吸が出来ないような息苦しさを感じていた。オメガであることも煩わしいとは思っていた。とはいえ、自分の性を否定していたわけではない。自分なりに折り合いをつけてこれまでやってきた。それを、家族は否定も肯定もしなかった。だから、こんなふうに『お前は市倉家の汚点だ』と言わんばかりの事を言われるとは思っていなかった。 「……おれが、彼女と結婚するって、こと?」 「いずれ、でいいわ」 「彼女と結婚したとして……生まれる子がアルファじゃなかったら? 第二の性が分かるのは大きくなってからだよね?」 「遺伝子検査は早いうちからできるわ。子どもは何人いてもきっと楽しいわよ」  アルファが生まれるまで産めということだ。その発言にぞっとした葉月はゆっくりと立ち上がった。 「……ごめん……多分、おれには無理……」 「葉月! 彼女は了承してるのよ。男のあなたがそんなこと言うなんて……女性に恥をかかせるものじゃないわ」  母がきつい視線をこちらに向ける。それでも葉月はそれを無視してリビングを出ていった。母が葉月を呼ぶがそれを聞くつもりはなかった。  このまま帰ろうと玄関へと向かおうとした、その時だった。葉月の腕が取られ、そのまま引きずられる。体勢をまともに保てないまま、たたらを踏むように廊下を歩きながら目の前に視線を向けると、そこには卯月が居た。
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