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 翌日、ヒートは治まり、体も軽かったのでいつも通り職場へと出勤した。おはよう、と声を掛けてくれる他の社員の様子もいつも通りだ。自分が昨日ヒートを起こしたなんて、誰も気づかない。 「おはよう、市倉くん。今日からフルタイム勤務なんだよね」  着替えを済ませ、開店前の売り場へと出た葉月に、袖崎の声が掛かる。既に開店作業を始めていた彼女を手伝うように葉月も隣で作業を始めた。 「はい……あの、ちょっと聞いていいですか?」 「何?」  レジの立ち上げ作業をしながら袖崎が言葉だけ返す。葉月は一度呼吸をしてから、口を開いた。 「ここに、おれ以外にアルファって、いますか?」 「アルファ? マネージャーがそうだって聞いたことあるけど……何か悩み?」  突然そんな話をしたからだろう。袖崎は自分がアルファだから同じアルファに何か聞きたいことがあるのかもと思ったらしい。葉月はそれに首を振った、その時だった。呼んだ? という声と共にカウンターの向こうにスーツ姿の男性が顔を出す。どうやらこの人がマネージャーらしい。きっと以前の自分は何度もこの人と話をしているのだろうが、今の葉月にこの人の記憶はなくて、少し緊張して頭を下げた。 「あ、マネージャー……市倉くんが何か聞きたいみたいですよ」  袖崎の言葉にマネージャーがこちらを向く。何でもない、と言える空気でもなく、葉月は思い切って口を開いた。 「あの……マネージャーがアルファだって聞いて……ちょっと聞きたいんですけど、ヒートのオメガにラットの薬って、効きますか?」  昨日から疑問に思っていたことだ。もしかしたら種類によっては効くものもあるのかもしれない、と思って聞いてみたのだが、マネージャーは一瞬驚いた顔をしてから、まさか、と笑った。 「効かないでしょ。僕らはソレに遭遇したらラット抑制の薬飲んで逃げるしかないよ」 「やっぱり、そうなんですか?」 「市倉くん、遭遇しちゃった? オメガの市販薬を持ち歩くって手もあるけど、それは人によって効くか分からないし、合わない可能性もあるからおすすめはしないかな。もちろん、特定の人が居て、その人の為に持ち歩くっていうなら、その人から分けて貰ってもいいと思うけど……一番いいのは僕みたいにパートナーと番うことかな」  そこまでの関係ならそれも選択していいと思う、と言われ、葉月は心臓がドキドキした。もしかしたら、昨日帝が飲ませてくれた薬は、自分の為のものだったのではないか、だからあんなによく効いたのではないか――相手に薬を渡すくらい、親しい関係だったのではないか。そう考えると、妙に気持ちが浮つく。 「マネージャー、番とか……今の市倉くんに言う事じゃないです」  黙り込んだ葉月を見て、袖崎が少し強い口調で言い返す。きっと自分が恋人と心中しようとしたことを思い出した、と思ったのだろう。 「あ、そっか、そうだね。ごめん。じゃあ、お仕事の続き、よろしくね」  マネージャーは気まずくなったのか、そんなことを言いながら後退り、そのままフロアへと歩き出した。 「ごめんね、市倉くん。市倉くんが元気だから、つい、忘れちゃう人もいるのよ」  特にマネージャーはなんか軽いのよね、と袖崎がため息を吐く。葉月はそれに首を振った。 「平気です。ちなみにここにオメガは……」 「それこそ、隠してる人多いからなあ……でも、うちは接客だから基本オメガは採用しないはずだよ」  それこそ何かあったら困るし、と言われ、そうですよね、と葉月が笑う。 「お客さんの性別は分からないからね。だから市倉くんも、フェロモン抑制剤の服用義務、あるでしょう?」 「そう、ですね……」  実際にはヒートをコントロールするための薬を飲んでいるのだが、ここではそういうことになっているようだ。  なんにせよ、番のいないアルファもオメガもいない職場、しかもオメガは採用されないと聞いてしまっては、益々性別に関しては隠さなくてはいけないことは分かった。 「大変だろうけど、市倉くんはこの仕事合ってると思うから頑張って……あ、アルファの悩みなら上村さんに聞いて貰ったら?」 「……帝さん?」 「アルファ同士なんだから、相談できることもあるんじゃない? 突然こんなこと聞くってことは、何かあったんでしょ? 聞いて貰った方がいいよ」  今日は予約してた本の発売日だから来店するはずよ、と言い置いて、袖崎は次の作業へと移っていった。  葉月はそれに、はい、と答えながら、その時帝に昨日の事を謝ろう、そして薬の事も聞きたいと思っていた。
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