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 目的の人を店で見つけたのは、午後のことだった。カウンターに上村さん来てるよ、と袖崎が教えてくれて葉月は急いでカウンターに向かったのだが、既にそこに帝の姿はなく、店の入り口付近で、その長身を見つけることが出来た。  店を出てしまう前に呼び止めようと、葉月は口を開いた。 「みか……」 「ごめんね、帝。ちょっと遅れたかな」  葉月が声を掛けようと、その背中を目指して足を動かした、その時だった。店のドアを開けて入ってきたのは、髪の長い、キレイな女性だった。白いシャツに紺色の軽やかなロングスカートはとても女性らしく清楚なイメージだった。それがよく似合っている。  そんな彼女が嬉しそうに帝に近づき、その腕に触れた。帝もそれを嫌がることもなく、その横顔は穏やかな笑みを湛えている。それだけで、この女性が帝にとって親しい人なのだと分かった。『帝』と呼び捨てにもしていたからそれは間違いないのだろう。  それから二人は何か少し話してから、そのまま店を出ていった。葉月が声を掛ける隙などなくて、二人の後ろ姿をただ茫然と見送る。 「帝さんの彼女……かな……」  そう言葉にした瞬間、葉月の胸がぎゅっと痛む。友達の彼女を見ただけなのに、どうしてこんなに苦しくなるのか分からない。けれど、この痛みは現実で、帝に『彼女?』とも聞けないくらいに動揺している自分が居る。 「市倉くん、カウンター入れる?」  店の入り口付近で立ったままだった葉月にそんな声が掛かり、葉月は慌てて振り返った。その様子に、声を掛けた社員が驚いた顔をする。 「……顔色、よくないけど大丈夫?」  早退する? と聞かれ、葉月は首を振る。どうやらこの動揺は顔にも出てしまったらしい。そこまで自分は帝に恋人がいることにショックを受けているのか。  でも確かにショックだった。嫌だと思った。それはまるで嫉妬のようで――  そう気づき、葉月が大きく深呼吸をしてから口を開いた。 「大丈夫です。すみません……カウンターですね、行きます」  葉月は努めて笑顔を作り、カウンターへと歩き出した。  気づいてしまった。気づいてはいけないことに。 「……おれ、帝さんが好きだ……」  呟く言葉は誰にも届かず、けれど葉月の胸には確かなものとして残った。  結局一日帝とその彼女のことを考えたまま勤務を終えた葉月は、事務所のパソコンで退勤の打刻をしようとして、いつもと違う画面に指を止めた。 「これ……」  画面には、『パスワードを変更してください』というメッセージが出ている。葉月がそれに首を傾げていると、同じ時間で仕事を終えた袖崎が画面を覗いて、ああ、と頷いた。 「市倉くん、もうすぐ誕生日でしょう? うち、一年に一回、誕生日にパスワード変えるのよ」  二週間前くらいから出るのよね、と言われ、葉月が頷く。 「じゃあ今変えておきます」  葉月はそう言って袖崎に教えられながらパスワードを変更する。 「誕生日、何かするの?」  休み取った? と聞かれ、葉月は首を傾げる。 「いや……実は今思い出して……でも、特に何もしないと思います」  葉月が苦く笑うと、そっか、と袖崎が少し悲しそうな顔をする。 「去年の誕生日は、嬉しそうにお休み取ってたけど……彼女とお祝いしてたんだね」  ごめんね、変な事聞いて、と袖崎の方が泣きそうな顔をする。葉月はそれに慌てて、大丈夫です、と首を振った。 「おれ、ホントに覚えてないので……むしろ、そういう話、聞ける方が今は嬉しいです。おれ、ちゃんと祝ってくれる人いたんだなって、分かったので」  葉月が微笑むと、袖崎が幾分表情を緩め頷いた。  葉月は、家族にちゃんと誕生日を祝ってもらったことがなかった。とても小さい頃はきっとご馳走やケーキで祝ってもらったこともあったと思うが、物心つく頃には、両親は仕事で家を空けていた。宅配で届くケーキとピザを兄と食べて終わる――それが葉月の誕生日だ。もし、記憶のない間に誰かに心から祝ってもらえていたのなら、それだけで嬉しい。 「そっか……今年、誰も居なかったら、職場のみんなでお祝いするから、お店来てね!」  ようやく笑顔になった袖崎が力強く言う。葉月はそれに、はい、と答えて微笑んだ。
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