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『市倉』と表札のかかった玄関のドアを開け、葉月は重い気分で家の中へと入った。
「遅い。墓参りだけでどれだけかかってるんだ?」
玄関の上がり框で仁王立ちしていたのは、兄の卯月だった。葉月はその顔を見上げ不機嫌に眉を下げる。
「恋人の墓参りなんだから、長くもなるよ」
葉月はそう答えながら靴を脱ぎ、卯月の傍をすり抜けた。
「……あの男と一緒だったんだろ? なるべくあいつには会うなと言ったのに……仕事が立て込んでなかったら、こんな危ない目に遭わせないのに」
「危ない目って……帝さんはおれの友達だろ?」
「それでも、あいつは危険だ。分かってるのか? アイツはアルファで、お前はオメガなんだ。二人きりになんてして、何かあったらどうする? だいたい、記憶がない今の葉月に何を吹き込むか……」
「……帝さんは紳士だよ。記憶のないおれにも優しいし……兄さんとは違う」
葉月はそれだけ言うとリビングへと向かった。
市倉家において、葉月は異端だった。
会社を経営している父に、医師の母、兄は弁護士で、みな優秀なアルファだ。葉月だけがオメガで、書店員という平凡な職に就いたことになる。アルファの家系からオメガが生まれたなんて、市倉家としてはあってはならないことだったらしく、葉月はずっとアルファとして育てられ、オメガだということを隠して生きてきた。けれど、やはりどんなに努力しても、アルファのように何でも上手くこなすことは出来ない。
高校までは頑張ったが、大学は兄とは違う二流の大学へと進んだ。
『もうアルファを演じることはできない』
そう家族に吐き出すと、両親は葉月に見切りをつけたようで、『好きにしなさい』と言われた。きっとそれもあって書店への就職をしたのだろう。
卯月はそれが不満らしい。小さい頃から、忙しい両親の代わりに自分によく構う兄で、何でも教えてくれた。けれどそれは葉月の第二の性が分かるまでだった。葉月がオメガと知れると、全力で罵った。葉月がどれだけ頑張っても、どうせオメガだから、オメガのくせに、と何度も言われた。だったら自分なんか両親のように放っておけばいいのに、そうはしない。とにかくそんな兄のことが重くて窮屈でたまらなかった。
記憶はなくしていても、死のうと思ったその気持ちが、少し分かる気がした。
「戻ったの? 葉月」
リビングのソファにどさりと座り込んだ時、後ろからそんな声が届いた。振り返るとスーツ姿の母親が立っている。
「今日はどうするつもり? 母さん、今日は夜勤だからまた病院に戻るけど……」
「マンションに帰るよ。おれのことは気にしなくていいから」
「そう? じゃあ、気を付けて帰るのよ。薬はまだある? 副作用が強いなら処方変えるから言いなさい。飲み忘れだけはやめてよ」
「分かってるよ。まだ薬もあるし、効いてるから」
母はバース科の医師だ。葉月がオメガと知れてから母が主治医ではあるのだが、記憶がないことで動揺していた葉月に、精神的な負担でも発情に繋がるからといつもと違う薬も出してくれていた。それが母の愛情と分かってはいるが、寄り添っては貰えないのだなと思うと、それは少し寂しかった。
父も結局目を覚ましたあの日から、仕事に戻っていて一度も姿を見ていない。葉月の家庭は昔からそういうことが日常だった。
「そう……記憶の方は、どう? 何か思い出した?」
母の問いかけに葉月は首を振った。
「すずさん? のお墓に行ったけど、何も感じなかったよ」
葉月の言葉に母は、そう、と短く返した。何か言おうとしてくれたのだろう、その唇がもう一度開いた時、母の後ろから、母さん、と声が掛かった。
「時間、いいの?」
顔を出したのは卯月だった。その言葉に母が手首の腕時計を見やる。
「あら、大変。葉月、またいらっしゃいね」
そう言って玄関に向かう母と入れ違いに卯月が葉月の傍に寄る。
「帰っても一人だろ? このままここに居たらどうだ?」
そう言いながら卯月が葉月の隣に座り、その肩を抱き寄せる。葉月はその手から逃れるように立ち上がった。
「大丈夫だから……もう帰るね」
「葉月、二階の部屋はそのままになってるから、いつ帰ってきてもいいんだよ。俺も待ってるから」
卯月が葉月の手を取り、そのままするりと腕に指を這わせる。葉月はその指を振り払うように歩き出した。
「葉月、もうあの男には会わせないからな。困った事があったら、ここにおいで。いいね?」
「ごめん、行くね」
兄の問いかけには答えずにそれだけ言うと、葉月は逃げるように実家を出て行った。
少し足早に実家から離れてから、葉月は大きくため息を吐いた。
卯月は葉月のことを否定するだけではなく、歪んだ愛情を向けている。それに気づいたのは高校に上がった頃だった。体に触れる機会が多くなり、彼女が出来たらその度に卯月が邪魔をして別れてしまう。最悪だったのは兄の部屋で兄に抱かれている彼女を見た時だ。
どうして、と責めたこともある。その時の卯月の答えは『あの子は葉月にふさわしくない。葉月の運命の番は俺だ』だった。
いつ一人暮らしを始めたのか、今の葉月には記憶がないが、おそらく卯月から逃げるために始めたのだろう。
いつ実の兄に何をされるか分からない。そんな不安をいつも抱えていて、部屋に鍵を付けたのもその頃だったはずだ。鍵を掛けないと眠ることも怖かった。
「……早く帰ろう……」
少なくとも安心して眠れる部屋へと、葉月は帰路を急いだ。
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