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10
その日から、帝とは会っていなかった。あの後、薬を飲んで眠りに落ちた葉月が起きると、帝の姿はなかった。
当然だと思う。別に看病を必要とするようなことでもないし、そうする義務も帝にはない。しかも、あんなに『好き』と言ってしまったのだ、帝だって正気の自分とどんな顔で会えばいいのか分からなかったのだろう。
でも、一人の部屋がひどく寂しく思えとしまった。
はあ、とため息を吐くと、隣から小さな笑い声が聞こえ、葉月は顔を上げた。
「ね、全然気づかないでしょう?」
「ホントですね。市倉、そんなで仕事できたの?」
そんな会話に驚いて改めて辺りを見回す。隣には袖崎、カウンターを挟んだ向かいには牧野が立っていた。
ちなみにここは職場、しかも会計カウンターだ。こんなところでぼんやりしてしまった自分が情けない。
「……すみません……ところで牧野は、仕事?」
もう終わったけど、と牧野が微笑む。こんなに店の中が見渡せる場所に居たのに牧野が来たことも分からなかったらしい。
「おれ、仕事してました?」
不安になって袖崎に視線を送ると、大丈夫、と笑う。
「もう身についてるんだね、接客は。お客さんが引いた、ついさっきだよ、電池切れたの」
「それなら良かったです……」
「それにほら、もう市倉くん上がりの時間だし、もうそのままでいいよ」
袖崎が自身の腕時計に視線を向ける。午後七時を回ったところだった。
「市倉、この後用ないならメシでも行かないか?」
俺も直帰するから、と牧野がこちらを見やる。葉月はそれに頷いた。ここ数日帝のことばかり考えて、落ち込んだり自己嫌悪したりしていたので、少し自分を甘やかしたい気分だった。
「じゃあ、表で待ってるから」
牧野の言葉に葉月が頷く。それを見ていた袖崎が、友達っていいよね、と微笑む。
「このところ、市倉くん色々悩んでるっぽかったから、聞いてもらうといいんじゃない?」
葉月はそれに頷いてから、そうします、と袖崎と同じように微笑んだ。
それからすぐに準備をして、牧野と合流し、近くの居酒屋へと入った。
「なんか久しぶりだよな、こうして飲むの」
テーブルを挟んで向かいでビールジョッキを美味しそうに呷ってから牧野がこちらに視線を向ける。葉月も同じように炭酸を味わってから頷いた。
「ちょっと体調崩したりしてたしね」
「えー? 大丈夫かよ? 頑張りすぎじゃないのか?」
まだ色々慣れないんだから、と牧野が心配そうな顔をする。葉月はそれに、大丈夫、と笑って頷いた。
「今ひとりだろ? 病院行けたか?」
「うん。ホントもう、大丈夫」
「そういう時は言えよ。見舞いくらい行くから」
友達なんだから、と言われ、葉月は、ありがとう、と答えてから、そうだ、と言葉を繋いだ。
「牧野って、今のおれのウチに来たことある?」
「……住所は知ってるけど、実際に行ったことはないよ。でも、今のご時世、スマホがあればどこでも行けるだろ」
牧野は、迷子を心配されていると思ったらしい。けれど葉月の質問の意図は違った。
いつか脳裏に浮かんだ、ソファに座る人影を思い出したのだ。なんとなく男の人に思えたので、可能性のある牧野にも聞いてみたのだ。でも来たことがないということは、誰か別の人物なのだろう。
「そっか。あ、今度遊びに来てよ。宅飲みとか、楽しそうだし。どうせ牧野も一人だろ?」
「どうせとか言うなよ。確かについ最近彼女にフラれたけど!」
どうやら触れてはいけない話題に触れたらしい。牧野は不機嫌な顔をしてジョッキを空にすると、近くを通った店員におかわりを注文する。
「うわ、地雷踏んでごめん」
「ホントにな。まあ、市倉だから許す」
「なんでおれだから、なんだよ」
そんなに可哀そうじゃない、と思いながら返すと、牧野の表情が少し優しくなる。
「市倉だって、好きな人と別れただろ? 同じだなって、さ」
仲間仲間、と牧野が笑う。おそらく別れたというのは、『すず』のことだろう。彼女が架空の人物なのかもしれないと気付いているのは葉月だけなのかもしれない。
葉月が本当に好きだったのは帝で、その想いを断ち切りたくてこの世を去ろうとしたのにできなくて、今もこうして想いを引きずっている。
何が幸せなのか、葉月にも分からなくなっていた。
「まあ、ね。時々、このまま生きてていいのかな、とは思うよ」
へへ、と笑うと、牧野の手がこちらに伸びてきて、そのまま頭を撫でられた。
「いいんだよ。生きて、笑って、幸せになっていいんだよ。俺も、市倉も」
牧野の瞳が潤んでいるのを見て、葉月は胸が苦しくなるほど嬉しかった。欲しい言葉、熱い友情をくれることが本当に有難いし、なくしちゃいけないと思えた。
でもそれを素直に態度に出すのはやっぱり少し恥ずかしい。
「あれー? 牧野、泣いてる? でもね、おれは、そんな牧野が大好きだよ」
ふざけ半分に笑うと、牧野が赤くなって、余計乱暴に葉月の髪を乱した。
「うっせ! 誰が泣くか! ほら、今日は飲むぞ!」
「明日平日だけど、いいの?」
「いい。半休取る」
牧野は葉月の頭から手を離し、ジョッキを持ち上げた。
「当然、付き合うだろ?」
葉月はその言葉に笑うと、同じ様にジョッキを持ち上げ、乾杯の音を響かせた。
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