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 どこか冷たい、寂しい部屋には、あまり物がなかった。物を捨てられない質の葉月にしては、片付き過ぎていて、少し変な感じがする。  一人暮らしのマンションに帰った葉月は小さくため息を吐いた。  それだけで、自分は本当に死のうと思っていたのだと分かった。メモやノートの類はもちろんのこと、アルバムなどの写真もカレンダーすらなくて、本棚は大きいのにそのほとんどを処分したように広くスペースが空いている。まるで記憶の断片すらも思い出さないようにしたみたいだ。 「ただいま……」  部屋の灯りを点け、葉月は手にしていた帝からの差し入れをキッチンに置くと、部屋の真ん中に座り込んだ。1LDKのリビングにあたるこの部屋には、ダイニングテーブルと本棚、壁に掛けられたテレビと小さなデスクしか置かれていない。寝室にはベッドがあるだけで、クローゼットの中もほとんど片付いていた。  自分の部屋に戻れば、何かのきっかけで記憶が戻るかと思っていたのに、こんなに片付いていては何も思い出せなかった。 「そういえば、あれ……見てないかも」  部屋の隅のデスクの上には、小さめのノートパソコンが置かれている。 スマホは海に落ちたときにダメにしてしまってなんのデータも拾えず新しいものになってしまったが、パソコンは使えるはずだ。  葉月は立ち上がるとデスクの前の椅子に座り、パソコンを開いた。  けれど中にはほとんど何も入っていなかった。メールやサイト閲覧の履歴は消され、文書や画像のファイルもない。ただひとつ『M』とタイトルが付けられたファイルが残されていて、けれどそれはパスワードで鍵がかけられていた。当然今の葉月にそのパスワードが分かるはずはなく、結局何も情報を得られないままパソコンをシャットダウンする。 「……このまま三年間空白のままで生きてくのかな……」  たかが三年。長い人生の中で見たら、たいしたことない期間だ。されど三年。一緒に死のうと思った恋人がいた三年は、大きい。  葉月はため息を吐きながらデスクに突っ伏し、目を閉じた。  家に閉じこもってるつもりなら、出てこないか――大学の頃の友人、牧野(まきの)からのメッセージを受け取った葉月は、翌日の昼、牧野とよく来たカフェに向かっていた。  今葉月は休職中だ。けれど体の方は元気なので時間を持て余していた。一人でこれからのことを考えていても答えも出なくて、ため息ばかりついていたので、正直この誘いは有難い。  カフェのある辺りは三年前と変わってなくて少しほっとする。慣れた店に入ると既に牧野が席についていて、こちらに手を振った。 「遅かった?」 「いや、仕事しようと思って早めに来てたから」  そういう牧野の前にはタブレットPCが置かれていた。 「出版社の営業だっけ?」 「そ。市倉の職場もよく行ってたよ」  だから今でも付き合いがあるんだよ、と言いながら牧野が目の前を片付ける。それから端に除けていたメニューを葉月に手渡す。 メニューは以前来ていた時から随分変わったようだった。知らないメニューも増えている。 「昼まだだろ? 何にする?」 「うん……どうしようかな……」  学生のころ、いつも頼んでいたのは一番安いパスタとみんなでシェアできるピザだった。 「牧野は? ピザ食べる?」 「俺はボンゴレかな。ピザはパス」  もうそんなに食えないし、と言う牧野に、そうか、と小さく呟く。スーツを着るようになっただけじゃない、本当に三年という月日が流れているのだと改めて思う。 「じゃあ……ウニのパスタにしようかな」  なんとなく目に付いたメニューだった。メニューには写真もないのに、その姿が想像できるのは、実際に食べたことがあるからなのかもしれない。 「市倉、ウニ食べれた? 食べてるところ見たことないけど」 「いや……苦手なはず。でも、ここで誰かと食べたような気がして」 「そっか……じゃあ、頼んでみよう」  味覚から何か思い出すかもだしな、と牧野は店員を呼び、注文をした。 「体調の方はいいのか?」 「うん……いまのところ、何もない」  葉月が答えると、良かった、と笑う。 「そっか。このまま少しずつ記憶も回復するといいな」  牧野の優しい言葉に頷いた時、テーブルの傍に店員が寄って来た。注文したものを置いて行く。葉月はそれを見つめながら、ぼんやりとした記憶を思い出していた。 「どう? 何か、思い出した?」  牧野が葉月の顔を覗く。  目の前には、見覚えのある皿に載った、見覚えのあるパスタだった。けれど、これの味が全く思い出せなくて、葉月は首を傾げる。 「……全然……食べれる気もしない」  本当に自分はこれを食べていたのかも不安になって、記憶の断片も幻だったのではと思うと、食欲すらなくなってしまう。  そんな葉月に気付いたのだろう、牧野が、市倉、と優しく呼んだ。 「俺がそっち食うから、市倉はこっち食えよ」 牧野が自分の目の前にあった皿を葉月に差し出す。葉月はそれに素直に頷き、皿を交換した。 「……どうして、食べれるって思ったんだろう……」  フォークでパスタを突きながら葉月は小さくため息をついた。メニューの文字を見ただけでどんなものかが分かったのだから、きっと見たことはあるのだろう。隣で誰かが食べていたとか、そんな記憶だったのだろうか。 「……市倉が見たことあるパスタって、今まさにその位置から見てたんじゃないか?」  ウニのパスタをフォークに巻きつけながら、牧野が独り言のような葉月の言葉に答える。その言葉に葉月が顔を上げた。 「その位置って?」 「だから、一緒に来た誰かが食べてたってこと。他の友達とか恋人とか」 「恋人……すず?」 「そう、その子とか」  言われてみると、確かに誰かの前にその皿はあったような気がする。おぼろげな記憶ではそれ以上は思い出せなかった。思い出そうとすればするほど見えていた景色は白く薄れていく。  向かいに座っていたのが恋人だと言うなら、その顔くらい思い出してもいいはずだ。まさに死ぬほど好きだったのだろう。けれど思い出せないことが苦しかった。
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