889人が本棚に入れています
本棚に追加
3
「……うえむらデンタルクリニック……ここか……」
牧野と会った翌日の午後、スマホの地図を見ながら歩いて来た葉月は目の前にある建物を見上げ、呟いた。
駅からほど近いビルの2階にあるその歯科は、確かにオフィス街からも近く、通うには便利そうなところだった。
葉月はしばらく掲げられた看板を見つめ悩んだが、立ち止まっていても仕方ないので、よし、と意を決してビルの中に足を踏み入れた。
エレベーターで2階へ上がり、医院名の入ったガラス戸を引き開ける。中から、こんにちは、と可愛らしい女性の声が聞こえた。
受付のある待合室には、平日の昼過ぎだというのに十人ほどが治療の順番を待っていた。深いブラウンを基調にした落ち着いた雰囲気の待合室を抜け、葉月は受付へと歩み寄る。
「こんにちは。ご予約はされてますか?」
受付の白衣を来た若い女性が笑顔を向ける。葉月は、いえ、と軽く首を振ってから、あの、と言葉を繋げた。
「副医院長……帝さんは、いますか?」
「……帝先生にご用ですか? お約束はされてますか?」
「いえ……」
「でしたら、お約束されてから改めてください」
変わらずの笑顔で女性が言い放つ。きっと帝はもてるだろうから、受付でもこんなふうに会いたいと取り次ぎを頼まれることがあるのだろう。はっきりと言うその態度は慣れているようにも見える。
「あの……市倉が来てるって、伝えるだけでもいいんです。お願いできませんか?」
「先生は今治療中なのでお伝えしても反応はないと思いますが……市倉様ですね」
少しお待ちください、と女性は軽くため息を吐いてから席を立った。葉月はそれに頭を下げてから、後ろに並ぶソファの一つに腰掛けた。
迷惑だったかもしれない。いきなり職場に来て会いたいなどと言えるような関係でもないのに、ちょっと間違ったかもしれない――待合室で待つ患者たちをちらりと窺ってから葉月は小さくため息を吐いた。
待っている患者が居るということは、それだけ忙しいという事だ。受付の女性が言うように反応はないかもしれない。
「市倉くん」
やっぱり帰ろうかと足元を見つめていた葉月に掛かったのは、そんな優しい声だった。受付の奥の廊下から足早にこちらに向かうのは、水色のケーシーを着た帝だった。
葉月だけではなく、待合室の全ての視線を受けて、帝が葉月の前で立ち止まる。葉月はそれに素早く立ち上がって頭を下げた。
「仕事中にすみません! あの、おれ、どうしても帝さんと話、したくて……」
「……検診の予約、だよね?」
「……はい?」
帝は腕を伸ばし、葉月の肩を抱くようにしながら受付カウンターに葉月を連れて行く。何が起きたのか分からずに葉月は帝を見上げた。
「桜井さん、僕四時なら空いてるよね。そこに市倉様で検診入れてくれる? 市倉くん、また四時に来て」
それだけ言うと帝は優しく微笑みを残してきびすを返して廊下を戻っていった。
「市倉様、保険証あればお預かりして、診察券作っておきますが」
受付に座る女性が笑顔で話しかける。葉月は慌てて肩から掛けていた小さなバッグを漁って保険証を取り出した。
「……本当にお知り合いだったんですね」
「え?」
「検診って、お話する時間作ってくださるってことですよ。帝先生と近づきたい人がよくこうやって来るんですけど、普通なら取り合わないですから」
「……ですよね……ちょっとストーカーっぽいですよね……」
葉月がそう言いながら緩く表情を崩すと、桜井と呼ばれていた女性は呆れたような笑みを浮かべた。
「四時にお待ちしています」
そう言われ葉月は、よろしくお願いします、と頭を下げて、歯科医院を後にした。
最初のコメントを投稿しよう!