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 しばらく近場で時間を潰してから、四時少し前に、再び葉月は帝の職場へと戻ってきた。なぜか酷く緊張する。ただ帝に会って話をするだけなのに、不思議な高揚感があった。  ゆっくりと呼吸を繰り返してから待合室に入ると、さきほど対応してくれた桜井という受付の女性と目が合い、彼女が立ち上がる。 「市倉さん、保険証お返ししますね」  その声に葉月が慌てて受付カウンターに近づく。保険証を受け取ると、葉月は適当なソファを探し、そこに腰を下ろした。  記憶のない三年の間の、半分を知る帝に話を聞きたい。自分がどう過ごしていたのか、帝にとって自分はどんな存在だったのか、それが知れたら何か思い出せるかもしれないと思った。  そんなことを考えていると、診察室と書かれたドアから女性の歯科助手が顔を出して、市倉さん、と葉月を呼んだ。葉月は慌てて立ち上がり、そちらへと近づく。 「こちらどうぞ」  ドアをくぐって、更に短い廊下を進んだ先のドアを開けた女性にそう言われ室内に入ると、葉月と入れ替わるように女性は部屋を出て行く。そこは、普通の診察室とは少し違い、完全な個室になっていた。どうしたらいいか分からず立ち尽くしていると、自分が入ってきたドアの反対側のドアが開いて、帝が顔を出した。 「僕の都合に合わせてもらって悪かったね、市倉くん」 「いえ、おれが突然職場に来てしまっただけで……」 「いいよ、ここなら大丈夫だから」  大丈夫、という言葉に、葉月の緊張が少しだけ和らいでいく。どうしてだか分からないが、帝と会うと緊張するのに同時に安心もするのだ。  帝は、椅子がないから診察台に掛けて、と言って、自分は診察用の椅子に座った。言われた通り、葉月が診察台に腰を下ろす。治療を受けるわけでもないのにここに座るのは、変な気分だった。 「市倉くん、話って?」  葉月がそわそわしていると、帝が先に口を開いた。葉月がそれに頷き帝を見つめる。 「あの……帝さん、普段おれと、何してました? どんなふうに会ったんですか? どのくらいの頻度で会ってました?」  葉月が矢継ぎ早に帝に質問を浴びせる。幾分面食らったような帝だったが、呼吸をひとつ挟んでから、落ち着いて、と微笑んだ。 「僕が市倉くんに会ったのは君が働く書店だよ。医学書を取り寄せてほしくて声を掛けたのがきっかけで……その時の対応が良かったから、次からも取り寄せは君を見つけてお願いしていたら自然と会話するようになってね。ほら、市倉くん、写真撮りに行くの好きだろ? あちこち行きたいって話を君がしてくれて、だったら僕が車を出すよって……よく二人で出かけてたよ」  帝の話を聞きながら、葉月は頭の奥に霧のようなものを見た。その奥に晴れた青空と海のような情景がうっすら見える。けれどそれはほんの一瞬で、すぐに消えてしまって、結局何か分からなかった。 「そう、なんですか……仲、良かったですか?」 「どうだろう……そこそこじゃないかな?」  なぜか曖昧に首を傾げられてしまい、葉月は少しだけ胸の奥がちくりと痛んだ。周りからは帝と一番仲が良かったと聞かされていたのに本人からはそうでもない返事を聞かされたせいだろうか。もしかしたら親友だったという言葉を期待していたのかもしれない。 「そこそこ、ですか……じゃあ、おれの恋人のことは、知ってたんですか?」  先日墓参りに連れて行ってくれたのは帝だった。墓の場所を知っているのは家族と帝だけだったので連れて行ってもらったのだ。だからそれだけ仲がいいのかと思っていた。 「ああ……とても、仲が良かったよ。お互いにお互いが一番大事だって言ってたしね……市倉くんは、記憶を失ってよかったのかもしれない。好きな人を失うのはとても辛いことだから」  帝はそう言うと、少し寂しそうな顔をした。帝にも大事な人を失った経験があるのだろうか。それを聞こうとした、その時だった。帝の腕時計からアラームが響く。それを止めてから帝は眉を下げ、こちらを見やった。 「ごめん、市倉くん、そろそろ次の患者さんの診察の時間なんだ。今日はこれでいいかな?」 「あ、はい。お仕事中すみませんでした」 「いや、気にしてないよ」  そう言って立ち上がった帝がドアへと近づく。このまま行ってしまうのだと思ったら、なぜか葉月は帝の腕をしっかりと掴んでしまっていた。 「え?」 「え? あ、いや、その……ごめんなさい……」  驚きに驚きで返してから、素直に謝る。そんな葉月に帝は微笑んで首を緩く振った。 「いいよ、大丈夫」  その言葉に、葉月はとても安心した。やはり、帝の口から出る、大丈夫という言葉はちょっと魔法みたいだ。 「すみません……あ、あの、帝さん……おれに連絡先、教えてくれませんか?」  その魔法を借りて、葉月はそう口にした。目の前には驚いた顔の帝がいる。 「僕の?」 「はい。ダメ、ですか?」 「……ご家族は、いいと?」  帝からそんな言葉が出て、葉月は首を傾げる。帝の連絡先を貰うことに、どうして家族の許可が必要なのだろうか――そこまで考えて、卯月の顔が頭に浮かんだ。卯月は帝を毛嫌いしているきらいがある。きっと卯月に帝も何か言われているのだろう。 「……おれが、帝さんの連絡先を知りたいんです」  葉月がまっすぐに帝を見つめ言うと、帝はそれに頷いた。 「そういうことなら、構わないよ」  帝は優しく言うとケーシーのポケットに入れていたスマホを取り出した。メッセージアプリでいいかな、と言ってから操作する。 「はい……ありがとうございます」 「いや……いつでも連絡くれていいからね」 「はい」  葉月が頷くと、帝も大きく頷いてから今度こそドアを開け、部屋を後にした。  帝の連絡先が入ったスマホを見つめる。ほんの欠片かもしれないが、欠けていた何かが埋まったような気がして、葉月は安心感に包まれたまま、診察室を後にした。
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