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平日の午後、スーツ姿の牧野と向かったのは、休職中の自身の職場だった。先日一緒に職場に行こうと話していたことを牧野は覚えてくれていたらしく、営業に行くからと声を掛けてくれたのだ。
葉月の職場は駅前の商業ビルの一階と二階に別れた大きな書店で、記憶はないが、どこか落ち着くような気がした。
「帝さんとはここで会ったって聞いたんだ。もしかして、すずさんともここで会ったのかな?」
担当していたコーナーに行けば何か思い出すかも、と言った牧野の後ろに付いてエスカレーターに乗る。葉月の言葉に気付いた牧野が振り返った。
「どうかな? 出会った場所とかは聞いたことないな」
「そっか……おれ、結構大事な三年を忘れてるのかも」
一人で暮らすための知識はすぐに覚えたし、学生時代までは覚えているから、そんなに大したことではないと思っていた。けれど、こうして話を聞くと、やっぱり自分にとって大事な三年だったのではないかと思うのだ。最愛と呼べる人に会い、愛して愛された、その記憶がないのは、なんだかすごく切なかった。
「……市倉の担当は実用書と専門書のコーナーだよ」
返す言葉が見つからなかったのだろう。牧野は葉月の呟きには答えず、エスカレーターを降りて、フロアを歩き出した。
一階よりも幾分落ち着いた雰囲気のフロアを歩いていると、通路の向こうで作業していた店員と目が合う。
彼女は驚いた顔をしてこちらに駆け寄った。
「……市倉くん?」
「……ですが」
「体、平気なの?」
白シャツにタイトスカート、その上にエプロンを付けた、この店の制服を着た彼女は、きっと自分の同僚なのだろう。覚えていないが、大きな瞳にうっすら涙を溜めたその表情を見る限り、自分を心配してくれるくらいには近い関係にいたのだろう。
「はい、体はもう平気です」
葉月の言葉を聞いた彼女が、そうか、と頷く。『体は』と言った言葉の意味を汲んでくれたようだ。
「袖崎さん、お疲れ様です。市倉、まだ記憶は戻ってなくて……」
葉月が動揺していると思ったのだろう。隣から牧野がフォローを入れる。袖崎と呼ばれた彼女が、そっか、と牧野に頷いた。
「私のことも分からないのよね。市倉くんと同じ、専門書担当してる袖崎です」
丁寧に頭を下げてくれた彼女に、葉月も慌てて頭を下げる。
「ご迷惑をかけてしまって、すみません……」
葉月の言葉に、袖崎は首を振って笑った。
「大丈夫。それより、今日はどうしたの?」
そう聞かれ、葉月は一瞬言葉に迷う。自分のことが知りたいから来た、なんて言ったらこの優しい同僚はまた心配してしまうのかもしれない。
「市倉、このままニートになったら困るから、少しでも仕事思い出したいって」
「……そう、なんです。仕事、思い出したくて……」
牧野の助け舟に乗る様に葉月が言葉を重ねる。このまま仕事なくなったら困るので、と笑うと、そうだよね、と袖崎も笑う。
「じゃあ、事務所、案内するね」
葉月の曖昧な言葉をどこまで信じたか分からないが、袖崎はにっこりと笑って、少し待っててね、と中断していた作業に戻っていった。これだけ大きな書店だから、仕事も多いだろう。時間を貰ってもいいか不安になったが、袖崎はすぐにこちらに戻って来た。
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