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「誰……ですか?」  暗くて寂しくて息苦しい夢から目覚めた市倉葉月(いちくらはづき)が発したのは、そんな言葉だった。見慣れない白い天井の周りに、両親と兄、そして友人の顔が並んでいる。そして、もう一人の男性。けれど、その人のことが葉月はひとつも分からなかった。家族よりも心配そうな表情を見せる整った顔をした知り合いなど居ただろうか、と考えるが、目覚めたばかりでどうして自分が家族に囲まれているのかも理解できていない葉月にはその人を思い出すことは出来なかった。 「……分からない、のか?」  葉月の言葉に男性が聞き返す。その表情はとても悲しそうな笑顔で、葉月の胸はぎゅっと痛んだが、どんなに考えても思い出せなかった。 「……ごめん、なさい……」  葉月が言うと、いいんだよ、とその男性ではなく、兄が言って葉月に微笑んだ。葉月はそれに頷いたが、男性のことが気になって視線はそちらに向けたままだ。 「上村(うえむら)(みかど)だ。君の……友人だよ」  そう言った優しい言葉と、今にも泣きそうなその顔を葉月はこの先も忘れることは出来なかった。  線香と菊の花の香りが鼻をついて、葉月はそっと瞼を開いた。目の前にそびえる灰色の石の下には、先日この世を去った葉月の恋人、『すず』が眠っている……らしい。  らしい、というのは、葉月にすずの記憶が全くないせいで、そう人から聞いただけだからだ。  葉月は一ヶ月前、恋人すずと心中をはかった。車ごと港から海に飛び込んだらしい。けれどそれは、すずの命だけを奪い、葉月は助かってしまった。一週間眠り続け、その後目覚めた葉月に、その記憶はなかった。  外傷はほとんどなかったものの、検査の結果、葉月には過去三年の記憶がないらしく、そのせいですずのことも覚えていない。こうして墓の前で手を合わせてもひとつも悲しくないのは、きっとそのせいなのだろう。  心の中で、ごめんね、とすずに謝ってから葉月はゆっくりと立ち上がった。 「もう、いいの?」  葉月をずっと後ろで待っていてくれたのは、帝だ。  三つ揃えのダークグレーのスーツを品良く着こなす八頭身に、雑誌のページから出てきたような、男でさえ振り返る整った顔、それに職業は歯科医、そして第二の性はアルファときたら完璧というか出来すぎだ。  目覚めたあの日、傍にいた帝は、一年半前からの友人だと聞いた。葉月が心配で駆け付けてくれたのに覚えていなくて、本当に申し訳なくて何度も謝ったのだが、その度に帝は、気にしなくていい、と笑ってくれた。帝は笑っているのに、その度に葉月の心はとても痛くなっていた。  全く覚えていない葉月のために、帝は入院中も時々来てくれて、色々な話をしてくれた。自分は三年前に大学を卒業したこと、その後憧れていた書店に就職し、帝ともそこで会ったこと――そんな話を聞いても実感がないのが少し辛かったが、その話自体はとてもありがたかった。 「……ここに居ても何も思い出せない」  葉月がそう言ってため息を吐くと、帝は優しく、その大きな手で葉月の頭を撫でた。 「焦らなくていい。きっと、いつか全部思い出せるよ」  帝はそう言うと、冷えるから行こうか、と葉月の肩に自分の着ていたスーツのジャケットを掛けてから歩き出した。  この人は誰にでも優しいのか、それとも記憶を失くした自分が可哀想だから優しいのか分からないけれど、優しくされるたびに、葉月の胸は罪悪感に痛んだ。  ここ一年ほどは、一番仲が良かった友人だというのに、帝のことをやっぱり全く思い出せないのだ。こんなによくしてくれる人に、自分は何も返せていない。 「疲れただろうから、このまま家に送るよ。それとも実家に戻る?」 「……一度実家に戻るよう言われているので、実家でお願いできますか?」 「分かったよ。そのまま実家に泊まるの?」 「いえ、その後は自宅に帰ります。実家、居心地悪いので」  葉月がそう言って苦く笑う。それを見ていた帝はスマホを取り出し、どこかに電話をし始めた。話しながらも駐車場へ辿り着くと葉月をエスコートするように車の助手席のドアを開けた。葉月が頭をぶつけないようにさりげなく車の上部に手をかけてくれるのは、エスコートし慣れている証拠だろう。これで彼女はいないというのだから不思議だ。  帝が助手席のドアを閉めてから運転席に乗り込むと、既に電話は終わっていたようで、ベルトしてね、と微笑んでから、慣れた手つきで車を発進させる。  その横顔は今見た笑顔とは違って凛々しくて友人だというのにドキドキとしてしまう。 「……帝さんってホントに彼女いないんですか?」 「何、急に。今はいないよ」 「今は……ってことは過去はいたんですよね。当たり前か、帝さんなら」  アルファだし、と葉月が笑うと、帝は困った顔をした。 「性別は関係ないよ。好きな人と結ばれなければ、そんなもの無意味だからね」  アルファだから幸せってこともないよ、と笑う顔は、少し傷ついているように見えて、葉月はこれ以上その話をすることが出来なかった。  それから他愛もない話をして辿り着いた家の前で、車はゆっくりと速度を落し、止まった。 「ここでいいです。ありがとうございました」  そう言って葉月はシートベルトを外し、帝に頭を下げた。帝は、気にしないで、と笑顔を向けてから、ちょっと待って、と後部座席へ手を伸ばす。 「これ、よかったら夕飯にして」 「これ……さっき帝さんが買って来たやつ……」  ここへ来る途中、帝は、ちょっと用を済ませて来るよ、とどこかの店に立ち寄った。戻って来た帝が手にしていたのがこの紙袋だ。 「うん。知り合いの店でテイクアウト頼んでおいたから。自宅に帰るって言ってたし、まだ一人じゃ食事とか不慣れかと思って」  手渡された紙袋の中には使い捨て容器に入った美味しそうな料理があった。 「パエリア、好きだったよね」 「……はい。ありがとうございます」  帝の笑顔を見ているとなんだか胸の奥が熱くなった。ひたすらに優しくてひたすらに紳士で、友人の食べ物の好みまで把握している帝にやっぱり恋人がいないなんて、葉月には分からなかった。  葉月はもう一度礼を言ってから、帝の車を降りた。
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