十一

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十一

 フランスの乾いた夏の暑さに比べると我が故郷広州市の夏は湿っていて、じっとりと額に汗が浮く。貧しかった子供の頃は、それが世界の全てだと思っていた。六月の雨量より多くはないが、大きな雨粒が日に何度も打ち付ける。亜熱帯に属し、中国本土の中でも最南端に位置する。目と鼻の先には香港、マカオがせまる。最近、ある日本人夫婦を殺し、絵画を奪った。組織の大老である黄志雄からの指示だった。すぐに広州に呼び戻された。どこかいつもの仕事とは異なる意図を感じたが、組織の命令は絶対だった。気になるのは日本人夫婦の子供を生かしておいたことだ。その場に居合わせなかったからとはいえ、完璧さを求めるなら一緒に始末しておくべきだった。残された子供が両親の死を知って、恨みを抱かないはずがなかった。再び出会うことなど、それこそ天文学的確率だろうが、そういう心の隙間に不運というものは入り込んでくる。一つの油断から白黒ひっくり返された奴を何人も見てきた。僅かなミス、ほんの少しの気の緩み、一とゼロの大きな差はいつの間にか百とゼロに開いているものだ。男はそんなことを思いながら、組織のアジトに顔を出した。中国広州市、旧市街地と呼ばれる三元里という街に組織の拠点がある。アフリカ系の黒人が多いこの地域は、まるでスラム街のようでもある。スリ、置き引き、強盗、レイプ、殺人、ありとあらゆる犯罪が日常に蔓延っていた。小さな古ぼけた雑居ビルの奥へと足を踏み入れる。夜でもないのに薄暗く、ネズミや親指ほどもあるゴキブリが散乱したゴミにたかっている。簡単なベニヤ板や錆びたトタン、ビニールシートで囲っただけの家は、雨風を凌ぐことすらできそうもない。額の汗が滴り落ちた。湿った空気が停滞しながら首筋に絡みつく。湿度は八十%を超え、サウナにでも入っているようだ。人が多いことにも驚く。広州市は北京、上海についで人口が多い。どこからともなく人が流れてきて、吹き溜まりのようである。広州市自体の治安が悪いわけではないのだが、時に行き場を失って溜まった膿のような環境が、人を犯罪へと導くのかもしれない。  男はこの街で生まれ育った。家が貧しくて学校にも行かず働いた。悪いこともたくさんやった。盗みなどはその日を凌ぐ糧だった。腹が減って食うために盗む。罪悪感などなかった。兄妹たちは栄養が不足し、病気になっても医者に診てもらう金が無かった。兄はマフィア同士の喧嘩の末に銃で撃たれて死に、妹は体を売った末病死した。政治が悪いのだと思った。中央の高官からすればスラム街の子供など石ころ同然だった。地元のマフィアの使い走りを始めたのはまだ十歳の頃だ。地域を束ねる頭領に気に入られ、次第に力をつけていった。近所の裕福な子が中学に通う頃には、小さな集団の頭となり、食えるようになった。生き残ることができたのは運が良かったからだと思う。この頃には自分が犯罪を犯すのではなく、自分より立場の弱いものを使って罪を犯すことを覚えた。そうすることで格段に儲けが出て、流れ弾にあたるようなつまらない死のリスクが減った。そして人を使うことがビジネスに繋がると気付いた。一つの犯罪を犯すにしても、役割を決め計画的に行った方が、これまでの行き当たりばったりの犯行に比べて上手く行くことを学んだ。自分の手足となって働いた者への報酬をケチったりしなかった。すると人が人を呼ぶことがわかった。気がつくと自分の周りには人が溢れ自らが動かなくても部下が指令を出し、金が見る見る増えて行った。そして、いつしか大老である黄志雄の側近になっていた。しかし、幾ら稼いで組織に貢献しても、黄志雄は自分を後継者と認めなかった。黄志雄からすれば野心の強すぎるこの男では組織を任すに及ばないと考えていた。そんな矢先にパリに住むある日本人画家から絵画を奪う指令を受けた。男はこの仕事と引き換えに、組織での実質的な実権を渡すよう申し出た。黄志雄はすでに高齢で、近々一線を退くことは目に見えていた。しかし中々実権を手放そうとしない態度に業を煮やしていたのである。それに、跡目を継ぐのが自分であるという確信が持てなかった。組織の絵画ビジネスで台頭しつつある孫小陽の存在が邪魔だった。孫小陽が日本から戻ってくる前にどうしても蹴りをつけたかったのである。もし黄志雄が世代交代を認めなければ、その時はその場で殺すつもりだった。日本人画家殺害に自ら手を染めたのは、任務の失敗で孫小陽に実権を奪われるという焦りがあったのかもしれない。  アジトの部屋のドアを開けると黄志雄が一人ソファに腰掛けていた。すでに八十歳を過ぎ頭髪は禿げ、日に何度も同じことを言うようになっていた。建物は湿気と香の匂いに包まれ、室内には幾つもの貴重な美術品が置かれている。その殆んどが海外で強奪したものだった。公安当局がこのアジトに来ることはない。すでに役人は買収され、組織のコントロール下にある。盗んだ美術品が全て高値で売り捌けるわけではない。闇ルートで買い手がつかなければ、こうして眠らせることになる。その中にアジアではまだ無名だったタザキノボルの絵画があった。男は自分が奪ったその絵を見つめた。その中に不自然なほど赤く染まった月の絵が掛けてあった。一瞬で心が奪われた。 「オ呼ビデスカ?」 「ソコニ座レ」  男がソファに腰掛けた。紅い月の絵が気になった。すぐにでもこの目の前の老いぼれを殺して、今、誰が最も組織の中で実力があるのか見せつけたかった。そんなリスクを犯さずとも、この老いぼれは後数年でくたばるだろう。ただ組織の権力が孫小陽の手に渡るのが恐かった。待つべきか奪うべきか・・・・・・。組織でいつもリスクを引き受けてきたのは自分だ。本当は美術品になど興味は無い。他人が価値があると言って欲しがれば、それを奪って自分のものにする。全ては金のためだった。 「ドウシタ? 落チ着キガ無イナ」 「コノ絵ハ高ク売レナイノカ?」 「コノ絵ハスデニ買イ手ガツイテイル。オ前ハ知ラヌダロウガ、アル高貴ナオ方ガ欲シガッテオラレル」 「誰ニ売ルンダ?」  それには答えなかった。 「コノ絵ニハ、実ハ兄弟ガ存在スル。白イ月ノ絵ダ。コノ絵ハ紅白ヲ揃エテコソ価値ガアル」 「白イ月ダト?」  絵画の良し悪しなど興味は無いが、何故かこの絵だけは欲しいと感じる。他人が欲しがっていると聞いたからだろうか。 「白イ月ハ今ドコニアル?」  黄志雄は答えなかった。 「オ前ハ人ノ心ヲ知ラヌ」 「何ヲイマサラ。悪党ガ人ノ心ヲ知ッテドウスル」 「私モトンダ見込ミ違イヲシタモノダ」 「コノ俺以外ニ組織ヲ束ネラレル奴ナド居ナイト思ウガナ」  黄志雄が苦笑する。 「オ前以外ニモ有能ナ奴ハイル」 「何ダト?」  思わず身を乗り出した。頭に血が上った。今すぐこの老いぼれを殺し、紅い月を奪う。買い手がついていようが知ったことではない。すぐに贋作を作らせて、その金持ちに掴ませてやる。そして、いづれ日本にいる孫小陽を殺して白い月の絵を手に入れる。 「アクマデコノ俺ニハ組織ヲ譲ラナイト言ウコトカ? ソレナラ俺ニモ考エガアル」 「オ前ハ、ソノ器デハナイト言ッテイルノダ」 「イツダッテ組織ノ汚レ仕事ヲシテキタノハコノ俺ダ。ソレヲ知ッテルダロウ?」  黄志雄が苦笑した。 「ワシハ絵ヲ奪エトハ命ジタガ、人ヲ殺セト言ッタ覚エハナイ」 「大老、約束ヲ忘レタトハ言ワセナイゼ」  黄志雄が煙草に火をつける。 「約束? 何ノコトダ?」  男が額に皺を寄せた。 「今回ノパリデノ仕事ガ済ンダラ、俺ニ組織ヲ任セルト言ッタダロウガ。マサカボケガ回ッテ覚エテイナイトデモ言ウンジャナイダロウナ?」  黄志雄が睨んだ。 「嗚呼、アノ話カ、アノ話ハ無シダ」 「フザケルナ!」  立ち上がり一歩踏み出した。 「面白イ話ヲシテヤロウ。オ前ガ奪ッタアノ絵ダガ、依頼主ハ誰ダト思ウ?」 「ソンナコトニ興味ハ無イ。ドウセ欲ニ目ガ眩ンダ絵画コレクターカ、ドコカノ金持チダロウガ」  黄志雄が不敵な笑みを浮かべる。 「ソンナツマラナイ話ナドシナイ。モット巨大ナ権力ガ動イタノダ」 「モット巨大ナ権力ダト?」 「ソウダ、世界ヲ揺ルガスヨウナ、巨大ナ権力ヲ、オ前ハマダ知ラナイ」 「バカバカシイ、ソンナコトヨリ俺ニ組織ヲ譲ルノカ?」  黄志雄は何も答えなかった。 「少シ時間ヲヤロウ、ソノ代ワリ、ソノ紅イ月ノ絵ハ俺ガ貰ッテ行ク」 「バカ者、恥ヲ知レ!」  男が腰に手をまわした。 「ナラバ独立ト、コノ絵ノ両方、今スグニ手ニ入レテヤル」  トカレフの引き金を引いた。弾は一発で黄志雄の眉間を撃ち抜いた。大量の血しぶきが飛んだ。黄は反り返るように椅子にもたれかかり首を折った。返り血が上着についた。男が紅い月の絵を壁からはずし外に出た。
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