十四

1/1
前へ
/34ページ
次へ

十四

 ハダケンゾウは目黒の生まれで、妻と息子の三人暮らし。父はすでに他界しているが、父の代からの土地と家があり、それを自宅兼ギャラリーに改築して画商を営んでいた。商売自体は細々として贅沢できるような収入があるわけではなかったが、目黒の一等地と美術品という資産があった。息子のケンゴは今年小学校を卒業し、来年は中学に上がる。所謂「お受験」というやつで、有名私立中学への進学を考えていた。来年から金が必要だという思いがどこかにあった。画商という商売は不安定である。少しまとまった資金が欲しいと思っていた矢先だった。孫小陽という客と知り合ったのは数年前である。油彩画の趣味が合い、小さな作品だが数枚一度に買ってくれたのがきっかけだった。よくよく話してみると彼は中国広州市出身で、日本と中国との貿易会社を経営しているとのことだった。身なりもよく日本語も上手で、そして何より美術品に詳しかった。時々広州市の本社に戻り、美術品や絵画などを仕入れてくる。ハダがそれを買い取ることもあった。孫小陽から贋作を売りつけられたことは一度もない。そういう意味ではオークションや海外の画商よりずっと信頼していた。その孫小陽からタザキノボルの売却を打診された時に驚いた。小さな画商でも運がよければこのクラスの画家の絵を扱うことがある。特に日本人であれば日本人画家の絵を扱うことは多くある。だからタザキノボルと聞いた時、運命的なものを感じた。そして画家の死が信憑性に輪をかけた。今買えば間違いなく高値で売れる。恐らく真作に違いない。鑑定書ならすぐに用意できる。未発表の作品が日本から出て来ても不思議がる者はいない。画家の死を考えると安く見積もっても億はくだらない。画商としての血が騒いだ。とにかく一度絵を実際に見なければ始まらない。孫小陽から渡された名刺を取り出して見つめた。  翌日、互いの気が変わらないうちにと、ハダケンゾウが連絡を入れた。その日の午後、歌舞伎町のオフィスで見せてもらうことになった。気持ちが落ち着かない。まだ買うと決まったわけでもないし、まだ実物を見たわけでもない。ハダケンゾウは移動中の山手線の中で一人苦笑した。しかし頭の中ではすでに購入のための資金をどこから借り入れるか算段し始めていた。今現時点で数千万の持ち金は無かった。銀行からは億の金であっても、目黒の土地と自宅を担保にすれば借りることができる。購入し数ヶ月自分で楽しんだ後、買値の倍で売り抜けることができれば、すぐに借金を返済することができる。投資にリスクは付き物だが、本当に真作であればこれ以上確実な投資はない。自分のこれまでの経験と感性を活かすのは今を除いてあるだろうか? 人生にそう何度もチャンスが巡ってくるわけではない。真作なら買う。心はすでに決まっていた。JR新宿駅で降り、東口を出るとすぐに歌舞伎町一番街のゲートが見える。映画館や飲食店が密集し、いつ来ても息苦しさを感じる。目黒とは大違いだった。  ホストクラブが密集するエリアを抜け裏通りに入ると急に日本人の姿が減り、中国文字の看板が目立つようになる。歌舞伎町はエリア的には案外狭い。一つブロックが違えば異なる国籍の店が建ち並ぶ。歌舞伎町は決して危険な街ではないが、様々な人間を受け容れる間口があるが故に、ちょっとした衝突やいざこざが起こる。ハダケンゾウは中華料理屋が並ぶエリアに建つ、クラブやパブが入った雑居ビルを見上げた。 「ここが孫さんの事務所か」  急に不安が過ぎる。ある程度覚悟はしてきたつもりだが、いざビルの中に入るとなると足が重かった。昼間だと言うのに薄暗く、ゴロツキに絡まれても助けを求めることなどできそうもない。辺りを見渡して、思い切ってエレベーターのボタンを押した。事務所は雑居ビルの最上階にあった。広州貿易有限公司とある。古びたエレベータがチンとやけに高い音が鳴って扉が開いた。インターフォンを押す。女性が出た。 「ドウゾオ入リ下サイ」  迷宮に深入りしたようで、すぐに帰り道のことは忘れた。応接室に通されると、ソファに腰掛けた孫小陽と、額に入り壁掛けてあるタザキノボルが目に入った。白く輝く月の絵で、大きさはPの四○号ほどだろうか、一般的なものより大きめだと感じた。 「孫さん、これですかな、例のタザキノボルは」 「ヨクオイデクダサイマシタ。ソウデス、コレガタザキノボルデス」  絵から目を離すことができず、言われるままソファに腰を下ろした。先程の女性が中国茶を入れて持ってきた。一口喉を通してようやく落ち着いた。 「孫さん、実に見事な作品じゃないですか。私は久々に感動しましたよ。そうですか、これがタザキノボルですか」 「コレハ白月。キャンバスノ裏ニメモガ残ッテイル」 「そうですか、そうですか、本人の直筆ですかな? それは何とも有り難い。白月とは言い得て妙ですな、私には眩しくて、やはりこのホワイトがタザキノボルの最大の特徴ですからな、申し分ない」 「気ニ入ッテイタダケタヨウデ何ヨリデス。裏地ニハタイトル、本人ノサイン。鑑定書ハ無イガ真作ニ間違イナイ」 「そうでしょうとも、何、鑑定書なんてどうにでもなる。孫さんが真作と言い切るんだから、私に異論はないですよ。ただ一応、入手ルートというか、履歴だけは確認しておきたいんだが」  孫小陽が顎の辺りに手をやった。 「履歴デスカ? サテ困ッタ、実ハコノ絵ニ履歴トイウモノハ存在シナイノデス。ツマリコレマデニ売買サレタコトガナイノデス」 「でも、孫さんが入手してるんだから誰か以前の持ち主がいるでしょう?」  孫小陽がハダケンゾウを見つめた。 「コノ絵ハ何ラカノ事情デ一度モ市場ニ出テイナイ」  ハダケンゾウが唸った。 「色々と訳有りのようですな。流出の理由とかわかりませんか? 本人が個人的に親しい友人などに贈った場合など鑑定書が無い場合もある。どっちみち正規ルートではなさそうだし、その素性を知りたいのだがね。私も売却する際に客から聞かれることだから」 「個人ノ転売ダト聞イテイマス。ソノ個人ノ名前ハ言エマセンガ、個人ガタザキノボル本人カラ譲リ受ケタモノダトカ、ソレヲ我々ガ手ニ入レタ。コノ説明デハ納得デキマセンカ?」  孫小陽を見つめた。いつものように目を細めている。 「孫さん、タザキノボルが最近急逝したって本当なのかい? そのことと今回の売却の話が関係しているとしたら嫌だなって、ちょっと思ったから」  溜息が漏れた。 「ソウデスカ、ヤハリ難シイデスカ。デハ残念デスガ」 「いや、孫さん、ちょっと待ってくれ。何も私は買わないとは言ってないんだ」  再び白月を見つめた。吸い込まれそうな白い月にこちらが見つめられているようだ。この絵が例え画家の死と関係していても構わないような気がした。 「額カラ出シテ、手ニ取ッテ見テモ構ワナイデスヨ」 「本当ですか? それは有り難い」  ソファから立ち上がり、二人で額を持ち上げた。 「ずっしりくる。凄い質感だ」  念のため裏地を確認すると、本人のサインとタイトルが記されていた。『愛する息子たちへ』とある。 「タザキノボルにはお子さんが」  よく見ると絵の端に一組の家族が小さく描かれている。 「画家の父親が有名な政治家だという噂は耳にしたことがある。尤も日本国内では知られた画家ではないので、たいした話題にもならないが」  孫小陽の細い目の中で瞳が動いた。 「ところで孫さん、この絵、幾ら?」  孫小陽が人差し指を立てる。 「一億円」  ハダケンゾウが目を見開く。 「い、一億」  首を横に振った。 「孫さん、一億ってあんた、このクラスの画家の相場は二千万から三千万がいいところだよ。そりゃ、ふっかけ過ぎじゃないのかい?」  白月を見つめた。一億円で買って一億5千万円で売り抜けられれば、一夜にして五千万円が転がり込んでくる。売却の宛があった。額に汗が浮いた。腋の下がべっとりと濡れている。絵は真作で間違いない。必ず売り抜けることができる。 「よし、孫さん、買った! 私がこの絵を買った!」  高揚感とは裏腹に息苦しさを覚えた。書面にサインしてビルを出た。駅までどうやって歩いたのか覚えていない。買う約束をしたが、実際に一億円という金を集めなければならなかった。手元にあるのは二千万円ほどで、商品や目黒の土地を担保に銀行から八千万円借りなければならない。妻には相談できない。反対されるに決まっている。銀行から八千万円借りて、持ち金と併せて一億円。現金ができた時点で絵画と交換することになった。政界に知人が何人かいる。その中の一人がタザキコウゾウを知っていた。タザキコウゾウの息子が海外では有名な洋画家であると教えてくれたのもその男だ。政界一の資産家だと聞いている。画家がどのような死を迎えたのか知らない。不幸な出来事の直後に遺品となる絵を持ち込む覚悟はできている。万が一タザキコウゾウが買わなくても、きっと海外のコレクターが買うだろう。そう自分に言い聞かせて、指の震えをやり過ごした。  銀行からの融資がおりるまで仕事が手につかなかった。妻の顔も息子の顔も直視できなかった。この取引が全て終わったら、家族で旅行にでも行ってしばらく仕事から離れたかった。取引当日、今度は目黒のギャラリーに孫小陽が部下を連れて絵を持参した。金は銀色のジェラルミンケースに入れて用意した。一万円札の束が百束、綺麗に敷き詰められている。通常の取引では有り得ないことだろうが、絵画や美術品などの売買にはよくあることだ。しかも相手は中国人である。特に曰く付きの物品では現金との交換は珍しくなかった。取引は無事済んだ。ギャラリーを今日だけは臨時休業し、購入したばかりの絵を額に入れ、中央のとっておきの場所に飾った。ついに買ってしまった。近いうちに自分の手から離れるとしても、現時点では自分のものだ。素晴らしい白だ。実際にユトリロを手にしたことはないが、昔ルーブルで観たのを思い出す。それ以上に鮮烈な白だった。明日は知人を通してタザキコウゾウに連絡を入れる。この落ち着かない気持ちは何なのだろう? グラスに氷を入れ、ウイスキーを注いだ。心地良い音が響いた。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加