十八

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十八

 サワムラジュンが密かに孫小陽とハヤシマサオの関係を調べていた。孫小陽本人とは一度も連絡が取れなかった。当然、会社も登記されておらず、住民票も存在しなかった。歌舞伎町の事務所に赴いても会うことができなかった。一方、ハヤシマサオは地元福井には足繁く通っているが大きな動きは見せず、孫小陽との接点も確認できなかった。ただ、歌舞伎町のある筋から、孫小陽という華僑のことが少しだけ聞こえてきた。この男は中国広州市を拠点とする「連合民団」日本では広く「蛇頭」と呼ばれるマフィアの一員で、元々は清代の民間秘密結社の一つだった。歴史的には清朝に反旗を翻して明朝復活を願う民団の流れを汲む。マフィアではなく農民、手工業労働者、無職などの貧しい人々の中から生まれた自衛団である。以前は貧困から抜け出そうと広州から長江の川下に位置する上海を経由して、日本に密航する者を斡旋することで利益を得ていたが、本土でもより貧困に喘ぐ東北部の農民を密航させるビジネスに乗り換えてきた。謂わば孫小陽は密航ビジネスの申し子のような存在だった。 「サワムラ君、孫小陽という男を確保できれば、ハヤシとの関係とまではいかないだろうが本国の組織の実態が見えてくるかもしれん。そうすれば中国当局の協力を得て、有力な情報に辿り着けるはず」  コウゾウの脳裏に広州を訪れた日の雨音が甦ってきた。 「先生、その肝心な男の足取りがまだ。国内にはいると思われますが、私たちの動きを察しているようです。何者なんでしょう?」 「さあな、単なる不法滞在者ではないことは確かだ。せめて国外に高飛びされる前に居場所を突き止めて抑えたいものだが」  サワムラは警察庁からアクセスできる全ての権限を利用し調べたが、何の痕跡も見つけ出すことができなかった。キーボードを叩きながら、名前も住所も存在しない人間が、歌舞伎町に確かに存在し現金で一億円もの絵画を売却している。ハダケンゾウに顔と名前を知られた程度では、綻びにもならないということか。奴をかくまっている仲間がいる。そう考えるのが普通だ。サワムラは思いを巡らせた。  サワムラが自宅を出て間もなく、後方から一台のバイクが近づいてきた。エンジン音が近づいてくるが一向にスピードを緩める気配がない。すぐ先はT字路で、減速しなければ曲がりきれない。身の危険を察知し、念のため裏路に逃れた。バイクは勢いよく通り過ぎ急ブレーキをかけた後、T字路を左折して消えた。フルフェイスのヘルメット、車体ナンバーは折り曲げられていた。サワムラはすぐに近くの公衆電話から通報しようとして手を止めた。この一件を公にできなかった。バイクが通り過ぎる際、男が裏路に逸れたサワムラに投げつけたガラス瓶があった。アスファルトに落ちて粉々になったガラスに紛れて新聞の切り抜き文字で作ったメッセージが見つかった。 「私ヲ捜スノハ止メロ、サモナケレバ殺ス」  孫小陽が仕向けたのだろうか? それとも奴が捕まっては困る第三者でもいるのだろうか? 警察官に対する脅迫としては幼稚なものだったが、背筋に冷たいものが走った。サワムラたちの行動はずっと誰かに見られていたということだ。この件を警察庁内で知る者はいない。あくまでタザキコウゾウと自分の二人だけの秘密だった。それでもサワムラは捜査を止めなかった。靴底が減るほど都内を歩き回った。バイクのエンジン音がまだ耳の奥に残っている。行く先々で空振りに終わった。誰も本当のことを話さない。誰かが先回りして情報を流しているかのようだ。サワムラの自宅は知られている。幸い独身だったが家族がいたらと思うと足取りが重くなる。大学を出て警察庁に入り、脅迫を受けたのはこれが初めてだった。バイクが背後から迫り、ガラス瓶が粉々に砕け散る音がフラッシュバックする。自分が希望した国際犯罪捜査のまだほんの入口に立っただけなのに、見えない敵に心が震えている。歌舞伎町のラブホテル街の中にある奴のオフィスを張りながら、夕暮れに染まる西の空を見た。いい歳をした中年のサラリーマン風の男が、商売女とホテルに消えて行く。奴は今、一体どこに身を潜めているのだろうか? すでに国外逃亡した可能性はないだろうか? 通りを行くホスト風の男の視線が刺さる。下腹の辺りが重苦しい。溜まった唾を飲み込む。見上げると奴のオフィスの明かりが消えた。そして従業員と思われる女が一人出てきた。サワムラはその女の後を付けて歩き出した。
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