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二
当時、フランスでは美術品だけを専門に狙う、アジア系の窃盗集団が問題になっていた。奴らは恐れと皮肉を込めて『Pluie de juin』と呼ばれていた。初めてパリの新聞を賑わせた窃盗団が中国広州出身だと判明し、市民に深い悲しみの雨をもたらしたことから、いつの間にかそう呼ばれるようになった。奴らは芸術文化を大切にするフランス国民を憤らせた。しかも手口が残忍だった。美術品を盗み、そして人の命を奪った。手口はどれも似通っていて、いきなり押し入って銃で脅し、盗んだ後射殺した。絵画コレクターは戦々恐々とした。街でアジア系の人種を見かけると、どこか冷たい視線にぶつかった。
昔からあるアジア系民族に対する偏見は根深いものがあった。日本人も同様だった。彼らからすれば外見が似ているというだけで侮蔑の対象だった。そんな中、タザキノボルが日本人画家として一定の評価を得たことは奇跡的と言ってよい。昔からフランスで活躍する芸術家の中に、ジャポニズム愛好家が存在する。その点で「日本的」とタザキノボルが評価されたことは必然であったのかもしれない。
タザキノボルは東京藝術大学美術学部油絵科を卒業後、単身パリに渡った。盛岡にある実家が裕福であったこともあり、生活の心配をすることなく絵を描くことができた。父タザキコウゾウは政治家で地元に不在であることも多く、比較的自由気ままに育った。大学を出て働く気にもなれず、であれば世界を旅してみようと、ふらっと海外に出た。フランス、パリを訪れた時、妻となるサエキヨウコと知り合い、そのままパリで暮らすことになった。日本にはビザの関係で年に数回帰郷する。やはり日本は美しい国だと、海外で暮らし始めて痛感するようになった。芸術に理解のあるパリとは比べられないが、久々に日本を訪れると自分が日本人でよかったと思う。ただ残念なのは、パリと違って個性的な、アバンギャルドな芸術を受け入れる土壌が成熟していない。日本にも優れた絵画、文学があるが、それはあくまで日本的という観点から世界に評価されたにすぎない。西洋で生まれた文化をいかに上手く表現したところで、単なる真似ごとに見られてしまう。けれどもタザキノボルの芸術の本質は、ジャポニズムではない。日本的だと言われたのは偶然で、それを狙ったわけでも迎合したわけでもない。他人の評価を気にすることなく描き続けてきた結果だが、名声など必要なかった。
妻のサエキヨウコとはパリ市内の画廊で知り合った。彼女も女流画家だったが、互いのことは全く知らなかった。その当時のタザキノボルは、まだそれ程売れていたわけでもなく、パリで俄かに脚光を浴びつつある若手画家だった。何度か偶然パリ市内で出会うことがあって、意気投合し一緒に暮らし始めた。すぐに長男ショウが産まれ、次男リュウも授かった。
「嫌な雨ね」
「この子たちは日本で育てたいと思うんだが、君はどう思う?」
「日本に帰国したいってことかしら?」
「いや、子供たちは日本という環境で、日本の文化で育てたいと思うんだ。親と早い段階で離れて暮らしたほうが、お互いのために良いってこと」
「幼い頃から親と離れて暮らすって、どうなのかしら? 幼少期の愛情が不足するデメリットを指摘する心理学者もいるけど」
「僕は心理学なんて信じないよ、悪しき慣習だ。案外、親が子離れできないだけかもしれないよ、親がいなくても子は立派に育つものさ」
「あなたって、いつも世間とは逆の発想をするのよね、世の中、グローバルな人間に育てたいと考える人は多いでしょうに」
「海外で育てたから世界で通用するなんて思ったら大間違いだよ。僕はね、より早い段階での自立心こそが、人が生きて行く上で大切なことだと思うんだ。僕自身が幼い頃から両親に放って置かれたからそう言ってるんじゃないよ。けれども結果的には、それで良かったと思ってる。海外に出たかったら、自分自身で飛び出したらいい。親が環境を与えて、表面的にグローバルな感覚が身についたとしても、大切なのは心の芯になる部分だから。それは日本人として、日本の文化や心であってほしい。表面的な差はすぐに埋めることができるから」
ヨウコが目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
「わかったわ、けど、いつから?」
「来年の春くらいに転入させようと思ってる」
「お義父さんは了承して下さってるの?」
「ああ、孫が可愛くない祖父なんていないさ」
「寂しくなるわ」
「日本へ帰れば、いつだって会えるよ」
ヨウコが頷く。
「僕はね、近頃、自分の絵にサインを入れるみたいに、君たち家族の誰かをこっそり絵の中に描いてるんだ、どう、面白いだろう?」
「まぁ、そうだったのね、知らなかったわ」
ノボルが頬を緩めた。
「でも、いつかは家族四人、日本で顔を合わせたいよね、子供たちが大きくなって、それぞれに独立を果たしたら、そうだな、親父の別荘で会う約束をしよう」
「お義父の別荘って、八幡平の?」
「そう、できれば親父も、お袋は若くして死んでしまったから残念だけど、八幡平を約束の地として、帰るべき場所として定めれば、子供達だって、迷わずに今後の人生を生きて行けるだろう?」
「いいわね、賛成!」
二人はベッドに倒れ込むようにして眠っているショウとリュウを見て微笑んだ。そしてベッドの傍まで行き、子供たちの額にキスをした後、ヨウコがリュウを抱え、ノボルがショウの手を引いてアトリエの隣にある子供たちの寝室へと入って行った。
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