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七
岩手県には原発プラントが一基も存在しない。太平洋側には、青森県から茨城県にかけて十五基もの原発施設がある中、岩手県にだけ原発が作られなかった。漁民を中心とする反対が強かったこともあるが、やはり岩手県出身の代議士タザキコウゾウの力が大きかった。岩手県内の発電施設は水力が五十基、太陽光が四十九基、地熱がニ基、風力が四施設、火力発電が一基となっている。他県と異なり原子力と火力への依存度が低い。県内での電力自給率は二十八%程度と低く、不足分を他県からの送電に依存していた。岩手県に原発プラントをと言う声が理解できないわけではない。けれども今、県は原発の核施設から出る核廃棄物の心配の無い、再生可能エネルギー施設の充実に向けて動き出しているところだ。岩手県には他県に負けない大自然がある。安易な手段に頼るのではなく、時間と費用がかかっても多少の不便を感じたとしても、再生可能エネルギーでの自給自足を目指すことが県の、否、日本国のためになるとタザキコウゾウは考えていた。
久々に盛岡の自宅に戻ると、ショウとリュウが出迎えてくれた。
「シズエさん、どうだね二人の様子は?」
「はい旦那様、お二人ともとてもお利口さんで、ショウ坊ちゃんなんて学校のテストはいつも百点なんですよ。それに図画工作では先生が驚いて、絵でも習いに行かせてるんですか? なんておっしゃるくらいです」
コウゾウが目を細めた。
「そうか、絵も上手なのか」
ショウの頭にそっと手を乗せる。思えばショウは、知ってか知らずか、自分の父と母がどこに行ったのか一度も聞いてきたことがなかった。子供ながらにすでに悟っているのだろうか? 新しい環境、しかも海外から日本に来てまだ日が浅い。幼い頃から何度も訪れて馴染みはあるが、海外とは言葉も違えば習慣も文化も異なる。幸い二人とも日本語には不自由していないようだ。ノボルたち夫婦が日本語で会話していたからだろう。ショウが絵が得意だというのは血筋かもしれないが、幼い頃から美術品に触れ、知らず知らずのうちに芸術的な感性が備わったに違いない。
「二人とも、明日久しぶりに八幡平に行ってみようか、お前たちに見せたいものがある」
ショウが顔を上げた。リュウは興味が無いと言わんばかりにそっぽを向いた。
翌朝、シズエさんが作ってくれた弁当を持って黒塗りの車に乗った。タザキ家にはトクダというお抱え運転手がいた。コウゾウが地元にいる時はトクダが運転した。盛岡市内から八幡平温泉郷まで小一時間ほどである。途中、滝沢を過ぎた辺りから広大な牧草地と雄大な岩手山が見える。晴天だった。車内は無言のままだった。トクダが気を遣ってカーラジオを流したが、コウゾウの顔色を見てボリュームを抑えた。この兄弟は口数も少ないが、牧場の牛を見たり目の前にそびえる山を見ても感情を表さない。無理も無いが、特に兄のショウは不機嫌になるわけでもなく、喜びを表すわけでもない。それに比べて弟のリュウの感情は微妙に動いているのがわかる。このまま放っておくと手を焼かせる子供に育つかもしれない。だが今は感情が不安に負けじと反発しているのだ。
車は別荘へは向かわず、松川沿いを八幡平山頂に向けて走った。次第に坂道が急勾配になり、幾つものヘアピンカーヴを抜けた。耳の奥が気圧の変化でツンとなる。その都度唾を飲み込んだ。深緑のカーテンが覆う。この道はアスピーテラインと呼ばれる。秋は紅葉が美しい虹色の道である。緑が開けたと思ったら松川温泉が見えてきた。するとその左手を流れる松川渓谷の先に、雲と見紛うような白い煙が上っているのが見えた。灰色のコンクリートでできた巨大な臼状の地熱プラントだった。
「トクダ、そこを左に曲がってくれ」
「はい、旦那様」
車がゆっくりとハンドルを切る。
「ショウ、あれが何かわかるか?」
ショウが車窓に顔を近づけ、食い入るように見た。
「あれは地熱発電というんだ。奥羽山脈にはたくさんの火山がある。岩手山もそのひとつだ。ああやって緑に覆われ一見穏やかに見えるが、その地中深くにはマグマがある。この辺に温泉が多いのもそのためだ。地熱発電というのは地中から噴出す高温の蒸気で発電用のタービンを回して発電するんだ」
「タービンって?」
「タービンというのはな、例えば自転車のライトは車輪が回ることで点くだろう? あのダイナモという機械を大きくしたようなものだ」
「へえ、そうなんだ」
珍しくショウが興奮を隠し切れず、瞳を輝かせている。小学三年生にはまだ地熱発電の仕組みはわからないだろうが、大枠で理解しているようだ。
「この八幡平にはな、松川地熱発電所の他に、北の又水力発電所もある。石油を海外から買ってきて燃やさずとも、ましてや原子力に頼らずとも、この岩手県という土地は立派にやって行けるんだ」
思わず声に力が入ってしまった。ショウの視線に気付き口を噤んだ。
「トクダ、停めてくれ」
車から降りると、松川渓谷を流れる川の音が包んだ。硫黄の臭いがした。
「温泉の臭いがする」
「これは硫黄の臭いだよ」
立ち上る煙を見て、コウゾウが一つ意地悪な質問をする。
「あの白い煙は何だと思う?」
「水蒸気だよ」
リュウが言った。
「水蒸気は無色透明で見えないんだ」
ショウが呟いた。コウゾウが目を細める。
「ショウ、ではあの白い煙は何だ?」
「成分はわからないけど湯気でしょう?」
コウゾウが頷く。
「高学年になったら理科で習うだろうが、石油を燃やせば二酸化炭素という気体が作られる。植物はその二酸化炭素を取り込んで光合成を行い酸素を作る。人は酸素が無ければ生きて行けない。自然のサイクルとして二酸化炭素が大気中に放出される場合はよいが、それが人為的に大量に、例えば人間のための発電をするために発生した余分な二酸化炭素はどうなると思う?」
ショウもリュウも首を捻った。
「今度、学校の先生に聞いてみなさい」
コウゾウが二人の頭を撫でた。
「さて、山荘に戻ってお昼にしようか」
コウゾウにとっても久しぶりの休息だった。息子の死は未だに他人事のようで、精神的には疲れ切っていたが頭の中が覚醒していて、逆に行動し続けることでしか自分の気持ちを誤魔化すことができなかった。悲しみという感情はいつ訪れるものなのか? 時々ショウを見ていると、息子ノボルが若返ってまた自分の元に戻って来たのではないかと錯覚しそうになる。ショウとリュウがいるお陰で全てを投げ出さずにいることができる。リュウも賢い子だが、どことなく柔軟性に欠けるところがある。硬い鋼のような印象のある子で、兄よりも負けず嫌いのようだ。それに比べてショウはまだ小学三年だというのに心の内を見せない。冷静だが感情の激しさをどこかに隠し持っているような子だった。
「お祖父ちゃん、父さんたちはいつ帰ってくるの?」
リュウはまだ小学校に上がったばかりである。
「お父さんが帰ってきたら一緒にクワガタ捕りに行きたい。クラスにノコギリクワガタを持ってくる子がいて、そいつのクワガタより大きくて強いやつを持って行きたいんだ」
「じゃあ、お昼御飯を食べた後、裏の林にクワガタを捕りに行こう」
「本当? やった!」
リュウが大はしゃぎする。
「ショウも行くか?」
ショウが頷いた。子供っぽい一面があって何故かホッとする。
「ワシもお前たちの父さんも、子供の頃はよくカブトムシやクワガタを捕ったものだ。クワガタをどうやって捕るか知ってるか?」
リュウが得意気に言う。
「夜、栗の木に罠を仕掛けて、早朝見に行くんだ」
「確かにそういう方法もある。でもちょっと都会的だな。田舎の子はそんな手間のかかることはしないぞ。樹液がたくさん出る木の場所を知っているからね」
「前に友達と近くの雑木林に行って、気を揺らしたよ」
「落ちてきたか?」
「あんまり」
「だろうなぁ、揺らしちゃダメなんだよ、蹴らないと」
「木を蹴るの?」
「そう、揺らすんじゃなくて、木に振動を与えるんだ。そうするとクワガタはびっくりして木から足を離す。揺らすとしがみつく」
「知らなかった」
リュウが目を輝かせた。昼食後、八幡平グランドホテルの周辺の雑木林まで歩いた。この辺りは別荘分譲地になっており、夏休みの間は子供の姿も見える。岩手山の山肌は、冬はスキー場になる。夏は虫たちの楽園だった。
「リュウ、そのクヌギの木を蹴ってみろ」
木の根元まで草をかき分けて行き蹴った。小学一年生の足はまだ小さく、力も弱く、振動を与えることができない。今度はコウゾウがガンと蹴った。辺りの草むらにカサッと固体が擦れる音がした。
「ショウ、落ちたぞ」
音がした方に駆けて行く。
「あ、いたよ、お祖父ちゃん、ノコギリクワガタのオスだ」
指を挟まれないようにつまみ、持ってきた虫かごに入れた。リュウがそれを羨ましそうに見ていた。
「さぁ、次は隣のクヌギだ」
いつの間にはコウゾウが先頭に立っていた。夢中になっていたのは自分の方だったのかもしれない。僅か小一時間で十匹以上のノコギリクワガタ、そしてミヤマクワガタも捕れた。リュウはミヤマクワガタを手にして大喜びだった。オスは子供たちの憧れだった。コウゾウが頬を緩める。どうやらリュウは生物が好きらしい。理科の実験にも目を輝かせているようだし、昆虫に限らず水中の生物や動物にも興味があるようだ。そろそろ切り上げようとした時、リュウがクヌギ林で何かを見つけ、慌てて引き返してきた。
「リュウ、どうした?」
「お祖父ちゃん、その木の樹液にスズメバチがいた」
「黄色と黒の大きい奴か?」
リュウが頷く。
「飛んでいるハチが顎をカチカチと鳴らしたら、すぐにその場を離れるんだ。そんな時はきっと近くに巣がある。だが、それ以外の時はハチも滅多に人を刺すもんじゃない」
コウゾウがリュウの指差す方へ歩き出した。
「二人ともついて来なさい」
ショウもリュウも目を輝かせていた。目的のクワガタを捕っている時以上に光を宿らせてコウゾウの後をついてくる。クヌギの樹液場の傍まで近づいても、スズメバチはピクリともしなかった。よく見るとクヌギの樹液に集まっているのはスズメバチだけではなかった。コクワガタのメスや、ゴマダラカミキリ、他にコガネムシやカナブンまでいる。
「よく見ておきなさい。これが自然の姿なんじゃ。スズメバチだからと言って、やたらめったらと恐がることはない」
「おっ、珍しいものを見つけた」
コウゾウが昆虫学者の目になった。久しく感じたことのない高揚感だった。実はタザキコウゾウは国会議員であるが、昆虫学者としての顔も持っている。大学の理学部では生物学、特に昆虫学を専門にしていた。その点では弟のリュウは趣味、趣向が似ている。
「どうしたの? 何を見つけたの?」
「リュウ、いいか、あのオオスズメバチの腹の辺りをよく見てみろ。黄色と黒の縞の間に茶色く飛び出しているものがあるだろう?」
リュウが頷く。
「あれはスズメバチネジレバネという寄生虫なんだ。奴らは昆虫界最強と言われるオオスズメバチに寄生して生きている」
「スズメバチは死んじゃわないの?」
コウゾウが鼻の頭を掻いた。
「リュウにはまだ難しいかもしれんが、スズメバチはやがて死ぬ。だけどすぐには死なない。宿主としてネジレバネに寄生されたスズメバチは、ネジレバネに体をコントロールされて生き続ける。ネジレバネのメスは宿主の中で卵を孵化させ、その幼虫は樹液場で宿主から出て脱皮する。そしてまた新たな宿主に寄生する。樹液場は虫たちの食事の場であると同時に、そういう外敵に出会う場でもあるということだ」
「コントロールされちゃうの?」
「そうだよ、生きているのに他人にコントロールされて生き続けることほど恐ろしいことはない。死より残酷な運命じゃ」
リュウが感心して声を漏らした。反対にショウの表情は沈んでいた。
「寄生虫というのはな、寄生する相手が死んでしまっては困る。なぜなら自分も生きて行けなくなるからな。だから宿主を生かさず殺さず保とうとするんだよ。でもこれも自然の摂理であって、誰が悪いという話ではない。悲しい現実ではあるが受け入れるしかない。生きているけど死んでいると言ったのはそういう意味だ。少し難しかっただろう?」
リュウが首を横に振った。
「面白かった」
ショウは何も答えず、ただ黙って樹液場の虫たちを見つめていた。
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