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私の生きる証
蜜蜂は、己の運命を疑うことも迷うこともない。生まれ、生きて、使命を果たし、そして死んでいく。顔を知らない私の親も、私と同じように働く同胞も、そうやって生まれ、死ぬ。
私の寿命もあと少し。女王蜂が生まれ飛び立てば、それを追いかけて交尾をし、使命は終わりだ。あとは空中で命尽き落下していくだけ。それが私、雄の蜜蜂である。
雄の蜜蜂は、蜜を集めない。己を含む数万匹もが暮らすコロニーを守り、維持するためだけの歯車のひとつだ。勿論、雌の蜜蜂もコロニーを守るために命を懸けるし、女王蜂もその身はコロニーを生かすためだけに存在する。我々が持つ遺伝子の存続、ただそれだけを脈々と甘受するのだ。
ある日、私はふと思った。コロニーから私がいなくなったら、どうなるのだろう。私の生きる証を残せなかったら、私という存在は一体何なのだろう。
私の隣で、同じ雄蜂が雌蜂の集めてきた蜜を食んでいる。こいつも交尾の時期が来れば、女王蜂に遺伝子を渡して死ぬ。遺伝子を渡せなかった者は、コロニーから追放されて死ぬ。
どちらにせよ、重要なのは我々の持つ遺伝子であって我々自身ではない。私が遺伝子を渡せなくても、他の者が同じことを粛々と行うだけだ。私がいなくなっても、代わりはいくらでもいるのだ。
私はおかしいのだろうか。己自身の存在意義を問うなど、蜜蜂としてあってはならないことだ。だが私は知りたかった。雄の蜜蜂という名前を脱ぎ捨てた最後に、何が残っているのかを。
ふらふらと私は巣を飛び出した。誰にも気付かれなかった。皆、己の命を生きるのに精一杯で、他の者の命に興味はないのだと思う。いや、己自身にさえ興味はないのだろう。繰り返し繰り返し、遺伝子に残された情報の通りに、彼等は働き続ける。そこに何の疑問もない。正解も不正解もないのだ。さようなら、私のコロニー。
そうして外の世界に飛び出してはみたものの、しばらくして空腹に目が眩み羽根を動かす力を失った。だが私は蜜の取り方を知らない。そういう風に生まれてきたからだ。
風に煽られながら、私は自嘲する。
外に出たところで、私は生きる術ひとつ持たないちっぽけな塊でしかなかった。遺伝子のためだけに生まれた歯車のひとつは、大きな世界を飛ぶ力すら与えられない。
私という塊は、少しずつ地面へと落ちていった。
羽根を小さくゆすられ、私は目を覚ました。私はかろうじて死んではいなかったようだ。だが蜜を取れないのでは、生きていても全く意味がない。私を起こしたのは一体誰だろう。
私の身体には白い花びらが乗せられていた。ほんのり甘い香り、あたたかさ。私とは違う種の生き物が、見慣れぬ二本の前脚を器用に使って、その花びらを私の身体から除けてくれた。
「ありがとう。私を助けてくれたのは、あなたか?」
その生き物は、小さく頷くとふたつの単眼を細めた。かわいそうに。目がふたつしかないのなら、餌を取るのも大変だろう。
「構わない。蜂は好みでないかもしれないが、どうぞあなたの餌にしてくれ」
生き物は首を傾げ、前脚を口元にあてると首を横に振った。ああ、やはり蜂は食べないか。
「そうか。無駄なことをさせてしまって申し訳ない。私のことはどうぞ放っておいてくれ」
生き物は少しだけ目を潤ませた。生き物の中には目に水分を蓄えるものもいると聞く。この生き物もおそらくその一種だろう。
先ほどの白い花びらの上に、生き物は何かを吐き出した。黄金色の、どろりとした水飴のような雫だ。生き物は、それを私に差し出した。
「これはローダンセマムの蜜ではないか。これはあなたの餌だろう。なぜ吐き出す」
なおも生き物はぐいぐいとそれを私の口元に押し付ける。食べろ、と言っているのか。この生き物は言葉を持たないのだろうか。
「私が食べても良いのか」
生き物はふたたび単眼を細めて、数回大きく頷いた。
「では、ありがたく頂戴する」
生き物は私がその蜜にむさぼりつくのを、目を細めて見つめている。目を細めるのは、この生き物の特徴らしい。
だが今は、そんなことより私の空腹を満たすことで頭が一杯だ。そうか、私はこんなにも生きることに執着するのか。知らなかった。
腹がくちくなり、今度は眠気を催してきた。なるほど生きるというのは、勝手に身体が欲するものなのか。私は生きるという営みを、コロニーの外に出て初めて学んでいる。
ぼんやりとした頭で生き物の方を見れば、おそらく雌であろう彼女はローダンセマムの葉の上に腰掛け、眠そうにする私を気にしつつ、ゆったりとした風に身を任せ心地よさげにしていた。
彼女のまわりには、いつの間にか蝶が集っていた。蝶も蜜蜂と同様、花の蜜を餌とする生き物だが、彼等は蜜蜂と違い、己のためだけに蜜を食む。コロニーにしか存在意義のない我々蜂のことを、どう思っているのかは知らない。
「おや、蜜蜂の雄じゃないか。単独で行動するなんて珍しい。ああ、交尾に失敗してコロニーから追い出されたくちだね? 気の毒に。遺伝子を残せなかった雄はコロニーの邪魔者なんだろう?」
「そうだ。遺伝子を残せた雄はその場で死に、残せなかった雄はコロニーの外で餓死する。私は今、そのどちらにも存在していない身だ。この生き物が、そんな私を助けてくれたのだ」
「生き物……、ああ。ローダンセマムの妖精のことか。彼女は生きとし生けるものすべてに優しい。彼女に見つけられて、お前は幸せ者だね」
「妖精」
「外の世界のことは何も知らないようだね。確かに、彼女は口がきけないから自己紹介もできないしな」
「口が、きけない」
そこで彼女──ローダンセマムの妖精は、私の方を見て、口元に手をあて、首を横に振った。ああそれは私を食べないというのではなく、喋れないという意味だったのか。
「死ぬべき運命の者を生かしたことで、神の怒りを買ったのだよ。彼女はお前のような者をこれまでも救ってきたからな。とはいえ、死ぬべき運命の者は、やはりすぐに死ぬものだ。お前も、その蜜が最後の晩餐だと思った方がいい。かわいそうだが」
最後の晩餐、か。私はふっと身体が軽くなったような気がした。柔らかな葉の上で何も残せず死んでいく己と、遺伝子を残すためにコロニーで生きていた頃の己、どちらが幸せなのだろうか。とにかく今は、眠い。
あたりは暗くなっていた。ローダンセマムの花の色だけが、薄っすらと白く暗闇に浮かび上がっている。私は伸ばした羽根に、生きている感覚を覚える。おや、私は今度こそ死んだのではなかったか。
私の隣では、妖精も丸くなって休んでいるようだった。少し元気の出た私は、地面に落ちていた花びらを何枚か拾い、彼女の身体に掛けてやった。夜はだいぶ冷えてきて、夜露がぽたりと葉先を伝っている。
私はこの妖精に生かされた。それがどういう意味を持つのか。彼女がまた死ぬべき運命の者を救ったことで、これから先どうなるのか。私には分からない。
ふるりと小さく身を震わせて、妖精が目を覚ました。身体に掛けられている花びらを見て、目を細める。喜んでくれているのだろうか。
私が生きたことで、私がいることで、彼女が喜んでくれるのなら、たとえこの命が短いものであろうと、それが私の存在意義にはならないだろうか。
私も神に逆らおう。彼女を守るために、残りの命を捧げよう。あとに何も残らなかったとしても、彼女が私の生きる証だ。
そうして私は妖精の手足となり、口となった。同じ蜜を食み、時折襲ってくる外敵から彼女を守り、寒い夜を共に温めあい、春を迎えた。
私は彼女の腕の中で命を終えようとしている。
「ありがとう。あなたに生かされて、私は幸せだ」
私の生きる証は、そんな私を目を細くしていつまでも見つめていた。
終
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