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哀れな婆と犬の糞
「개똥……ケトン!」
誰の声や? どうやら寝落ちしとったようや。
バシャッ!! 突然、液体を掛けられる。
「つめてっ! 何てことするんや」
冷水を浴びせられ、眠気は綺麗さっぱり吹き飛んだ。
水が飛んできた方向を睨みつける。そこには、小さいおっさんが、バケツを持って突っ立っている。このおっさんと面識は無い。
「お前は誰や!?」
視界に収めているものに、何やら違和感を感じる。
周囲を見渡す――今俺が居るのは、初めて見る小汚い部屋。
「무엇을 이야기하고 있습니까?」
おっさんが俺に何かを言った。外国語のようで、どんな意味かさっぱりわからない。
強烈過ぎるアウェイ感。こんなものが、現実であるはずがない。俺の夢の中なのに、謎の外国人に支配されるのは、気分が悪い。
反撃の狼煙を上げる。
「操你妈」
相手を罵り、怒らせる目的で使うスラング。Fuck your mother という意味。
寝起き時に言われた『개똥』もスラング。日本語に訳すと〝犬の糞〟であることは知っている。
突然罵倒され、心地良い眠りを邪魔されたのだ。こちらが言葉を選んでやる必要は無い。
「누군가 사람 살려!」
おっさんが扉の外に向かって、大声で叫んでから数十秒経過。
六畳程しかない小さな部屋の中に、おっさんが二人追加投入され、むさ苦しさが増す。
職務上、普段から嫌という程おっさんの相手をしている。夢の中でまで、関わりたくない。
これは俺の夢。夢の中なら無双できる――はずだったのだが、呆気なく取り押さえられた。
どうせ言葉は通じない。思い付く限りの罵詈雑言を浴びせる。
* * *
取り押さえられた状態で、五分程経過。
突然、ツンとする刺激臭が鼻をつく。原因を探ろうと周囲を見回し、視界に捉えたのは祈祷師のコスプレをしている婆。
刺激臭を振り撒きながら、念仏を唱えるように、ぶつぶつと呟き続ける婆――不快極まりない。
こういう輩は、大概が偽物。不快な挙動には、何の効果も無い。
だが、これは俺の夢の中。俺の願望を叶えるため、具現化したに違いない。
《言葉が通じるようにしろ》
偽物だとは思いつつも、願望を念じてみた。
応答するかのようなタイミングで、頭の中で声が聞こえる。
《何を捧げてくださいますか?》
流石夢の中。都合の良い事が起きる。
《〝名前〟をくれてやる》
床の水に反射した顔は、俺の顔ではなかった。つまり、身体は別人のものということ。この容れ物がどうなろうと、俺に影響は無い。
《かしこまりました。願いを叶えましょう》
声の主の名が、身体の名称である『犬の糞』になったはず。
《君の名は?》
《犬の糞……何故? あなたの名ではないわよね?》
ご愁傷様。犬の糞――。
* * *
婆が不快な念仏を止め、俺に質問する。
「呪いは解けたかの?」
婆の言葉を理解できるようになっている。犬の糞は約束通り、俺の願いを叶えてくれたようだ。
「頭の中に声が聞こえてきた。で、婆の寿命を見返りに捧げ、願いを叶えてもらった。婆も、俺が話す内容を理解できているか?」
ガタガタと震える婆。
「お主……何という事をしてくれたんじゃ!!」
「ふむふむ。俺が話す言葉も婆に通じるようになってるな。言葉の壁のせいで意思疎通出来ないと不便だから、一歩前進だ。理解出来てるならおk」
いつまでも、念仏婆の相手をしている暇は無い。外に出るため、部屋の扉に向かって歩く。
「ここにはもう用は無い。それじゃあな」
ここはどんな世界なのだろうか――。
期待に胸を膨らませ、部屋から出ようとしたところを、おっさんズに取り押さえられ、怒鳴られる。
「奴隷が勝手に出るな! 言われたことだけしていろ」
その定型文は聞き飽きた。糞上司が、散々喚き散らしていた台詞だ。
「お前らこそ奴隷だろ。いや、それ以下だな。言われたことに従うだけの、無能な泥人形共め」
「婆。〝こいつ〟の呪い、解けてないぞ!」
「滑稽だな。想定外の出来事に対応出来ない。自分で考えもしない。困ったときには責任転嫁か」
そんなことはさておき、新たに気になることが出てきた。俺の呼称が『犬の糞』から『こいつ』に変わっている。あいつが叶えた望みは、他人にも影響するのだろうか。
「おい、婆。さっきの奴また呼べるか?」
「婆じゃなくて、美憂ちゃんと呼んでくれ。誰を呼ぶのじゃ?」
どういう事だ!? 婆には、犬の糞を呼ぶ力は無いのか? 所詮、偽物の祈祷師ということか。
とりあえず、先程と同様に願ってみる。
《犬の糞と、俺の容姿を入れ替えろ》
数秒後、頭の中で声が聞こえる。
《それは……》
待たされた数秒間は、犬の糞が躊躇った時間か。
《等価交換だ。出来ないのか?》
《ゔー……かしこまり……ました》
《よろしい。また呼ぶ》
どうやら犬の糞と取引き出来るのは、俺の能力のようだ。犬の糞は声だけの存在だから、容姿は知らない。が、交換することを躊躇う程度には良いのだろう。
アバターは、現実世界と違う姿の方が楽しめる。
さあ、RPGの始まりだ。
胸元を見ると膨らみがある。そして、あるべき膨らみが無い。性別と容姿が変わっているのに、おっさんズに驚いている様子は無い――やはり、犬の糞の力は他人にも影響しているようだ。
「出掛けるから出口を教えろ」
「ん? あぁ……」
出掛けていいのかよ。おっさんズが俺の後ろを歩き、出口まで誘導する。尻を触ってくる手が鬱陶しい。けれど、外に出るまでの辛抱。グッと堪える。
犬の糞と交換した、この身体には、奴隷である事を示す刻印等は無かろう。ここを出てしまえばクリーン。
おっさんズとは、今生の別れだ。こんな所に戻ってくることは無い。
心の中で犬の糞を呼んでみる。
《おい、聞こえるか?》
《何でしょうか?》
《俺の事を呼んでみろ》
《ご……主……人様》
《そうか。定番の設定だな。名付けた者が主人となるのだろう?》
《……左様でございます》
《そんな重要な事を主人に隠すとは、良い度胸だ。罰を与える! 貴様の全能力を、俺に移譲しろ》
《それだけは、ご勘弁を!》
《命令だ》
一分程応答を待った。
しかし音沙汰が無い――能力を失ったため、応答出来なくなったのならば仕方ない。
犬の糞がどのような能力を持っていたかは知らない。しかし、状況的に、全能力が俺に移譲されているはず。
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