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薫風
「もう、初夏だなぁ。ビールが美味い!ってか東条さんってさぁ、彼氏いないの?」
「ええ、まぁ…」
苦笑いを浮かべる私に、若干酔っ払い気味の上司は不思議そうに首を傾げると、ビールをごくりと飲みこんだ。
「美人なのにねぇ。」
「勿体ないですよね!」
「どんな人がタイプなん?」
周りに座っている同僚や先輩までも、興味津々といった様子で身を乗り出して聞いてくる。
週一で開かれる職場の飲み会。今日の私もまた、お決まりの質問攻撃にタジタジだった。でも、社会人一年目の私が欠席するわけにもいかない。
「全然、そんなことないですよ。タイプは…」
これもお決まりの台詞。そしてこの時に必ず頭に浮かぶ人。
そう、沖田さん、あなただ。
「お疲れー!」
「お疲れ様でした。」
二軒目に行くという上司達に頭を下げ、バス停に向かって歩き出すと、ふわりと心地よい風が頬を掠める。
「初夏…か。」
大好きな季節。だけど、大嫌いな季節。
それでも、私はなぜかこの季節を毎年心待ちにしているような気がする。
大学卒業後、どうしても京都に住みたくて、両親の反対を押し切って京都の呉服店の事務職に就職した。大学生の頃は金銭的な理由もあって、どう頑張っても半年に一度くらいのペースでしか京都には来れず、私はそれが嫌で嫌で堪らなかった。
「沖田さんに会いたい。会えなくても、彼と出会ったあの場所に行きたい。」
私の頭はいつもこればかり。
「たった一度の旅行で、どうしてそんなに京都が好きになったの?」
と両親の困惑した顔を思い出し、「そりゃそうだよね」と笑いが出てきそうになると、またも穏やかな風が私の長い髪をさらっていく。
明日は土曜日。仕事も休みだ。
「行こうかな。」
私は鞄を肩に掛けなおすと、バス停への道を急いだ。
玄関を出ると、五月初旬とは思えないほど温かな朝に、うーんと青空を見上げながら伸びをする。そこには飛行機雲が一本。随分前に飛んで行ってしまったのだろう。雲が滲んでしまっている。
花柄のワンピースの裾の皺をパッパとはたいた私は、壬生寺に向かって歩き出す。あの時もそうだった。沖田さんと初めて出会った時も、私は花柄のスカートをはいていた。だからか、壬生寺に行く時は、必ずどこかに花柄のアイテムを身に着けるようにしている。だって、もしかしたら…って、いつも考えてしまうから。
壬生寺に近付くにつれて、木刀のぶつかり合うような音や、掛け声のようなものが聞こえてきて、私は驚いて一瞬立ち止まる。心臓がバクバクとうるさい。
京都に来て、これまでも何度もここには通っている。だけど、こんなことは初めてで、私は困惑を通り越してパニックなりかけていた。でも、足は正直で、しっかりと壬生寺に向かって進んで行く。
表門の前まで来ると、そこには人だかりができていた。皆、真剣な顔で中を覗いている。私も彼らにならってそちらに視線を向けると、
「あ…」
私は息を呑んだ。そこには、懐かしい景色が広がっていたからだ。袴を着た大勢の人が木刀を構えている。夢を見ている気がした。
「素敵やなぁ。あんたも出稽古を見に来たん?」
「え?」
隣にいたお婆さんに話しかけられる。
「あら、天然理心流の出稽古やで。」
「…天然理心流?」
その時、稽古を終える声が響き渡り、私は驚いてお婆さんから彼らの方へ視線を戻した。
境内に入ると、端には片付けをしている大勢の天然理心流の門下生たち。もちろんそこに彼の姿なんてあるわけもないのに、それでも必死に彼らの顔を確認してしまう自分がいる。一通り確認し終えると、私はがっくりと肩を落とした。
「いるわけないよね。」
視界が滲んでいく。なんとか人に見られないよう俯き加減に壬生寺の入口へと急いでいると、突如、あの風がまた私を包み込んだ。
「こんにちは。」
懐かしい、聞きたくて聞きたくて堪らなかった愛しい人の声と共に。
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