君へ贈るこの想いに

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君へ贈るこの想いに

 恋なんて関係ないと思っていた。好きという感情なんてわからなかった。恋愛なんて全部、今までの私には縁遠いものだったんだ。関わりのないものだと、私には無理なものだと思っていた。  でも、世界は突然変わったんだ。  明白なきっかけなんてなかった。理由なんて考える間もなかった。  気が付けば、好きになっていたんだ。 「奈央!」  今まで当たり前のように見てきたはずの君の笑顔が眩しくて、その笑顔が自分に向けられる度に胸が落ち着かなくなって。名前を呼ぶその声も、取るに足らない些細な会話も交わす挨拶も全部全部特別に感じられて。  ほら今も。目が合っただけでこんなにも好きが溢れてくる。熱でも出たかのように頬が火照って、心臓の鼓動が早くなる。  親同士の仲が良かったせいで昔から一緒にいることが多くて。中学校に上がったあたりでさすがにずっと一緒というわけではなくなったけれど、それでも心地の良い関係は保ったまま、たまたまお互いに第一志望だった同じ学校に無事受かることができて、高校では同じクラスにまでなって。  隣にいる機会は変わらず多かった。それが嬉しかった。想いを自覚したのは本当に何てことのない、いつも通りの日々の中で。ああ好きってこういうものなのかもしれないと何だかくすぐったくなった。そこからは私の世界で君が、君だけが特別に輝いて見えるようになった。  ようやくやって来た私の初恋の相手は、君だったんだ。 ◇◇◇ 「恋かあ、よくわからないんだよな」  片想いから晴れて両想いになったという友人の話を聞いた奏真が一番に発したのは、そんな言葉だった。 「わからないって嘘だろお前……普通の高校生なら一度は憧れるもんだろ」 「普通ねー」  友人に熱く語られてもなお、ピンときていない様子で奏真は曖昧に笑っている。 「まあ、今の俺には恋なんて当分考えられないもんだよ。お前はすごいな、おめでとう」  その会話を近くの席から見ていた私は安心して、誰にもバレないようにホッと息をついた。  奏真は恋に興味がない。ということは今付き合っている人はいないということになる。奏真と面と向かってこういう話をする機会はないから、それは初めて私がゲットした情報だった。盗み聞きのようになってしまったのは何だか申し訳ないけれど……  でもこうするしか他にないんだもん、と私は机上に開かれたままのノートに視線を落とした。あちこちに書き留められたメモのせいでグチャグチャな整理のついてないページは、私の頭の中をそのまま表しているかのようで。  奏真のことが好き。そう気付いてから数ヶ月が経った今でも私はこの想いをどうしたらいいのかわからずにいた。  告白を考えなかった訳じゃない。でも奏真との今の関係は手離しがたくて。断られてしまった時、この関係も恋心もどちらとも壊してしまうんだと考えたら踏み出せなかった。会話や態度が変わってぎこちなくなってしまうくらいなら、打ち明けないでこのままでいい……自分でも情けないと思うけれど、そうやって逃げ続けてきてしまっている。 「弱いなあ、私……」  ただの幼馴染みでも友達でもどんな形でもいい、君の視界に映っていられるのなら。私はそれだけで十分。 「奈央ちゃーん」  不意に耳に届いた友達の呼ぶ声に私は急いで立ち上がった。パタンと軽い音を立ててノートを閉じる。今行くと声を上げて歩き出す時、少しだけ……少しだけ、奏真に視線を送ってみる。眩しいくらいの笑顔を浮かべる彼にまた胸が熱くなった。  ……ああ、好きだ。  そんな想いばかりが募っていく。毎日君に会うことができるこの日々が幸せだと、私は心の中でそっと言葉を落としたんだ。 ◇◇◇ 「疲れた……」  今日も無事に長時間の授業を乗りきり、疲れきった私はホームルームが終わるのと同時に思わず机に突っ伏してしまった。  あんなに長くて暑かった夏は季節の移ろいというものを感じる暇もなく突然変わり、今ではもうカーディガンが手放せない日々。教室内の掲示物もいつの間にか冬仕様になっていて、こうしてどんどん時は流れていくのだと思うと少し不安になってくる。冷えた指先を擦ればじわりと温もりが灯った。 「奈央ちゃんお疲れみたいだねー」  突如、頭上からかけられた声に慌てて体を起こす。見ればいつの間にか側まで来ていたらしい友人の愛莉が机のすぐ脇に立っていた。 「おやつ用に持ってきたチョコ、まだ残ってるけどいるー?」  ふわふわと間延びした口調で発せられた言葉と共に、目の前に差し出された小さなお菓子。愛莉が毎日のように持ってきているものだと思い当たって私は笑った。 「うーん、欲しいかも。ありがとう愛莉」 「いえいえー。はいどーぞ」  もらったばかりの個包装のチョコを早速開いて口に運んでみる。途端に甘く心地の好い香りが口内に広がり、疲労しきった体に染みていくのを感じた。やっぱり甘いものは癒される…… 「あれっ」  ふと、珍しく愛莉がジャージ姿でいることにようやく気が付いて私は首をかしげた。 「愛莉今日は部活行くの?」 「そうー。休みすぎってついに呼び出されちゃったから行ってくるの。奈央ちゃんは今から帰り?」  頷けばそっかあと愛莉はラケットの入ったケースを持ち直した。 「じゃあそろそろ行ってくるー。奈央ちゃんバイバイ、また明日ね」 「うん、また明日。愛莉も部活頑張ってね」 「はあーい」  廊下へと消えていく愛莉の背中を見送り、私はうーんと軽く伸びをした。放課後になった教室内は少し静かだ。部活組が早々に出ていってしまうせいで人も少ない。そろそろ私も帰ろうかな。  気合いをいれるために小さく息をつき立ち上がる。通学鞄を肩に掛けながら身を翻せば、丁度顔を上げた奏真とバチッと音が出そうなくらい正面から目が合って。思わず私はビクリと肩を震わせた。 「お、奈央も今帰りか?」  一緒に帰ろうぜと奏真が鞄を片手に笑う。心臓がドキッと音を立てたけれど、決して顔には出さないようにして咄嗟にうんと笑顔を浮かべた。 「奏真……部活はいいの?」 「俺今日は休むんだよ、この後バイトあってさ。奈央が一人でいるのも珍しいな」 「あ、うん、愛莉が部活で」  よかった……今日も普通に話せてる。  並んで歩き出しながら私はホッと息をついた。好きだと気付いてから奏真を変に意識してしまって、少しでも気を抜けばすぐにぎこちなくなってしまいそうになるから。最近は不自然にならないように、バレないようにすることばかり考えてしまっている気がする。 「運動部は大変だよなー。俺のとこは緩い部活だからバイトで休むって言っても許されるけどさ」 「奏真は結局どこのバイトにしたんだっけ?」 「駅前のあの店にした。新入りだからってまだまだコキ使われてばっかだよ……って、ああそうだ。俺、奈央にお礼言わなきゃだよな」  昇降口で靴を履き替えながらかけられた言葉。お礼? と首をかしげた私を奏真はじっと見つめてきた。 「奈央、相談とか色々乗ってくれてありがとな。おかげでようやく落ち着けたし、ほんと助かったわ」 「相談って……」  何だっけと記憶を辿る。確かに家が近いこともあって、奏真が家のことやバイトのことで悩んでいるのは聞いたし何かできることはないかと申し出てみたけれど、それでも相談に乗ったなんて言えるのかもわからないことしかできていない。 「そんな、お礼を言われるようなことは私は何も……大したことしてないし」  むしろ何もできることがなくて、力になれなくて申し訳なかったのに。お礼なんて言われる権利ないよと焦る私に奏真は目を細めた。 「奈央は眩しいよな」  一瞬何を言われたのかわからず、私はぽかんと奏真を見つめ返した。 「……え?」 「だってさ、いつも奈央は真っ直ぐじゃん。意見を求められた時ははっきり答えるし、誰かが困ってたらすぐに飛んでくだろ。それに常に周りをよく見てるから気が回るし、ちゃんと真剣に聞いてくれるってわかってるから悩みとかも話しやすいしさ」  初めて聞いた、奏真から見た私の姿。そんな風に見られていたことに動揺が隠せなくて。 「ほんと奈央はすげーよ」  奏真はニカッと笑って続けた。その瞳に、頬を赤く染めて戸惑った様子で立つ私の姿が映っていて。  ……真っ直ぐなのもすごいのも、私じゃない。奏真の方だよ……  否定、しないといけないのに。私はそんないい人なんかじゃないよって言わなきゃいけないのに。ずるい私は言えなかった。奏真からのその言葉が堪らなく嬉しくて、幸せで。それが本当のことじゃないってわかっていてもなかったことになんかしたくなくて。  突然黙り込んだ私を奏真は大して気にしていない様子で先を歩いていく。その後ろ姿はその日、とても大きく私の目に映った。 ◇◇◇  ちゃんと、この想いに向き合ってみよう。  そう決めた私は毎日飽きもせずにこのことばかり考え続けた。けれど一向に答えは見つかってはくれなくて。穏やかな空気に包まれる昼休みの教室で、私は一人ため息をついた。  奏真と一緒に帰った日からさらに一週間近くが経った。私の想いは収まるどころか、膨れ上がっていく一方で。  もっと奏真といたい。会いたい、話がしたい。今のままじゃ足りなくて、もっともっとと次々に想いが溢れてきて。 「……ちゃん……奈央ちゃん……」  でも、告白なんかできない。壊したくない。今まで通り私が隠し通せばいい、ただそれだけだ。この想いは無理やり抑え込むことになってしまうけれど…… 「おーい、奈央ちゃーん」  でも、このままでいられるのならそれでも…… 「奈央ちゃんってばー」 「……え?」  突然耳に入ってきたその声にハッと我に返れば、机に頬杖をつきこちらを覗き込む愛莉の姿があって。 「もー、やっと気付いた。ちゃんと聞いてた?」 「えっと……ごめん、ぼうっとしてた……」  どうやらずっと呼び掛けてくれていたらしい。全く気が付かなかったことに申し訳なさでいっぱいになりつつも素直にそう答えると、愛莉は目を丸くした。 「奈央ちゃんがそんな風になるの珍しいね。いつもしっかりしてるのに」  それから何か面白いことを思い付いたみたいに、急にニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべた。 「もしかしてもしかして、恋のお悩みー?」  恋。その言葉にドキリとして私は目を見開いた。  愛莉は当たった? と私の反応を眺めている。一瞬心の中を読まれたのかと本気で思ってしまった。愛莉は意外と鋭いところがあるから、もしかしたらずっと前から気付いていたなんてこともあるのかもしれない。  それなら……愛莉になら、相談してみるのもありなのかもしれない、愛莉に聞いてみたいと私は口を開いた。 「あのさ……愛莉は、恋ってしたことある?」  緊張からか若干震えてしまったその言葉はしっかりと愛莉の耳に届いたみたいだった。恋かあ、と考えるように首を傾けている。 「うーん、ないかなあ」  意外な答えに思わずえっと目を丸くする。そんな私の反応を見て愛莉は笑った。 「そりゃあずーっと小さい頃に、いわゆる初恋ってやつ? はわたしもしてたと思うけど。でもそんなの今となっては本気だったかなんて自分でもわからないし、きっとノーカンでしょー。だからないよ。わたしそんなにしてたイメージあったー?」 「だ、だって、愛莉はちゃんと可愛いし女子っぽいし……」 「あはは、なにその理由ー。ないない、ぜんぜんない。奈央ちゃんおもしろすぎだよ」  何が面白かったのか、それからしばらく笑い続ける愛莉が理解できず私はポカンとその様子を眺めていた。  可愛くて明るくて、いかにも女子ですという感じの愛莉みたいなタイプは恋愛なんて当たり前みたいな、そこまではいかなくても何度もしたことがあるんだと思っていた。好きというこの気持ちだって何度も経験しているんだと思っていた。  これは皆にとって普通なもので、でも私だけがよくわからなくて……そういうものだと思っていた。だからこそどうすればいいのか教えてほしくて…… 「まあまあ」  不意にポンと肩に置かれた手。 「そんなに難しく考えない方がいいと思うよ、奈央ちゃん」  穏やかで優しいその声は、思考に沈みそうになっていた私を掬い上げてくれた。 「だってー恋って特定の人への想いが強くなったものでしょ? だったら難しくないよ。他の感情よりもちょっと特別で複雑なものなだけで何も変わらない。知らない誰かのものじゃない、奈央ちゃんだけのものなんだから。奈央ちゃんがしたいようにしちゃえばいいよ」  ふわふわしているようで愛莉の言葉は真っ直ぐだった。いつもそうだ。愛莉は人のことをよく見ている。愛莉の言葉に今まで私は何度も助けられてきた。 「……私の、したいようにする……」  それって何だろう。私はどうしたいんだろう。奏真のことが好き、だけど今の関係を悪い方向に壊したくない。そうなるくらいなら今のままで……なんて、何度も巡らせてきたことくらいしかいくら考えても浮かんでこなくて。 「このままじゃ、やっぱりダメなのかな……」 「うーん、それは奈央ちゃん次第じゃない? そこまではわたしにはわからないよー」 「そ、そうだよね、ごめん……」  愛莉にそう返され、私はすぐに反省して項垂れた。  何でも人に聞いてばかりじゃダメだ。これ以上は愛莉に迷惑をかけてしまう。自分でちゃんと考えないと…… 「そうだ、あとここだけは訂正ね」  人差し指をピンと立てて、少し気取った様子で愛莉は続けた。 「奈央ちゃんは可愛いよ、だいじょーぶ。そんなに卑下しないでさ、自信もっていこー」  ほわんほわんと笑う愛莉につられて私も口許を緩めた。 「……ありがと、愛莉」  お世辞だとわかっていてもその優しさが嬉しい。何だか胸が温かかった。この想いの行方に対する不安も迷いもまだ残ったままだけれど、愛莉と話せてよかったと私はその日実感したんだ。 ◇◇◇ 「これで全部、かな」  念のためもう一度と教卓に集まったプリントの枚数を数える。今日の出席人数とピタリと一致していることを確認して、よしっと私は気合いを入れてそれを抱えた。  ちゃんと全員分集めたからあとは教科室に持っていくだけだ。日割り制の教科係の仕事にももうすっかり慣れてしまった。同じことを繰り返すだけのこの仕事は我ながら私によく合っていると思う。こうしてゆっくりと考え事ができるから……人の少なくなった廊下を歩きながら私はそんなことを考えた。 『奈央ちゃんがしたいようにしちゃえばいいよ』  思い出すのはあの日の愛莉の言葉。私がしたいこと、今まで考えても考えてもわからなかった。そうして出した答えが本当に合っているのかも、自分のことのはずなのに何が正解なのかもわからなかった。でも……  本当はどうしたいかなんてきっと初めから、心のどこかでずっとわかっていたんだ。  奏真が好き。本気で好きだから。  叶えたいって思う。そのために頑張ってみることが怖くて、理由を探して逃げていただけ。だけど今はもう違うんだ。  踏み出してみよう。私が何をしてもしなくても、時間は過ぎていくし私たちは大人になっていく。関係は必ず変わっていくんだ。ずっとこのまま変わらずに……そんな絶対の保証なんてあるわけ無いんだから。叶えたいなら、伝えないといけない。 「失礼します」  辿り着いた教科室の前でそう声をかけ、ノックする。応じる声に扉を開けばデスクの前で忙しそうに書類を束ねている教員の姿があった。 「提出のプリント集めてきました」 「おお、ご苦労様。そこの机に置いておいてくれ」 「わかりました」  担当教師の声に従いプリントを置く。これで教科係の仕事も終わりだ。失礼しますと再度声をかけて、静かに廊下へと戻る。 「結構遅くなっちゃったな……」  足早に誰もいない廊下を歩きながら私は窓の外に視線を送った。すっかり夕焼けに染まってしまった空の下、グラウンドでは運動部が駆け回っている。  奥の方に小さく見えるテニスコートでも数人がラケットを振っているのが見えて、あの中に愛莉もいるのだろうかと目で追ってみたけれど、今私がいる場所からは遠くて判別がつかない。さすがに見えるわけないかと苦笑して目を離そうとしたその時。 「あれ、奈央?」  背後から響いてきたその声に、私は動きを止めた。 「もう遅い時間だけどまだ帰ってなかったのか」  最近よく帰りが重なるなと声は笑った。私は振り返らなかった。 「奈央?」  見なくともわかる。好きだから。心臓が痛いほど高鳴って、そわそわと落ち着かなくなって。嬉しさと緊張で手が震えるんだ。 「奈央」  不意に視界に奏真の顔が入り込んできて、私はびくりと肩を揺らした。いつの間にか近寄って来ていた奏真が顔を覗き込んできていて、その距離の近さにまた私は動けなくなって。 「どうした? 体調悪いんなら……」 「……だ、大丈夫! 大丈夫だから」  慌てて否定する。どうしよう、今絶対に不自然すぎる。バレないようにしなきゃなのに……  そこまで考えてから、私はぎゅっとスカートの裾を握った。  ……違う、隠すのはもうやめようって決めたんだ。たとえ告白をした後に関係が壊れてしまったとしても、今まで通りをなくしてしまうことになっても。この想いを伝えるんだ。他の誰でもない、奏真に。  覚悟を、決めたんだ。もう隠さない。君に伝えるから。 「……あ、あのね、奏真……!」 「そういえばさ」  タイミングが合わずに、声が重なる。あっと奏真は気まずそうに頬をかいた。 「悪い、何て言った?」 「あ……ううん、お先にどうぞ」  反射的にそう譲ってしまった。覚悟が揺らぐ。切り出し方も仕草も何が正解なのかわからなくて。 「そうか? じゃあ……って言っても、そこまで大した話じゃないんだけどさ」  奏真の話が終わったら。終わったら伝えよう。それは、そう密かに心の中で決意をしていた時だった。 「俺、彼女できたんだ」  その言葉を聞いた瞬間、私の周囲の音が一気に遠退いていった。 「この間緊張しまくりながら告白して、そうしたらオーケーもらえてさ!」  眩しいくらいの笑顔で、少し照れ臭そうにそう言った奏真とは裏腹に私は動けなくなってしまった。  ……奏真、好きな人いたんだ。  指先から体温が抜けていく感覚に私はぎゅっと手を握り締めた。  知らなかった。恋はよくわからないって、恋なんて当分考えられないって言ってたのに。それを私はすっかり真に受けて、疑うことすらしていなかったことにようやく気が付く。  いつの間に好きな人ができていたんだろう。いつの間に告白していたんだろう。いつの間に、いつの間に……私がこの奏真への想いに気付くよりも前だったの? それともそれより後だった?  そんな思考ばかりの自分に嫌気が差す。 「っ、そっか……」  不自然に思われないように、何とか発した声は震えていたかな。ちゃんといつも通りに聞こえたかな。わからないよ。  好きな人に恋人がいた。そのことに気付けなかったなんてあまりにも情けなくて、悲しくて……苦しい。  喉から熱いものが込み上げてきそうになって、私はグッと唇をきつく引き結んだ。  ……私じゃダメなのかな。その人じゃなくて、私を選んでくれないかな。今なら……今なら、まだ間に合うかな。まだ私を振り返ってくれるかな。  この時の私はどうかしてたんだと思う。ありえない思考ばかり巡らせてそれにすがりついて、どうにか息を吸おうとして。ろくな判断もできないまま、何か言わなきゃととにかく口を開いて。 「そ、奏真……私……」 「奏真くん!」  絞り出した声に重ねるようにして響いた高く綺麗な声。振り返った奏真の表情がパッと明るくなるのを私は目の前で見てしまった。  角から現れた一人の制服姿の女子生徒。灰色のカーディガンを身に纏いふわりと可愛らしい微笑みを浮かべて、奏真にひらひらと手を振っている。中途半端に固まる私の前で奏真は彼女に向けて片手を上げて応えていた。見つめ合うその瞳にはどちらも確かな熱があって。  熱くなっていた頭が急激に冷えていく。私は何も言えなくなってしまった。だって、彼女が奏真の相手なのだと嫌でもわかってしまったから。二人の纏う雰囲気はふわふわとしていて、幸せに包まれていて。私だけが異色だった。私の入る余地なんてないのだと言われているみたいだった。 「悪い、呼ばれたわ」  奏真は鞄を肩にかけ直すと、そう言って私に視線を寄越した。何てことのないことを言うように軽い口調で。私が大好きな笑顔と共に。 「じゃあ俺行くから」  ……ねえ、好きだよ。 「奈央も気を付けて帰れよ。また明日な!」  君が好き。だから行かないで。お願い、私の隣にいて…… 「……うん、また明日……」  なんて。今にも叫んでしまいそうなのを必死に堪える。  こんなこと言えるわけがない。前を向いている君を邪魔することなんかできない。困らせたくない、そんなことしたくない……だけど。  苦しさで胸がいっぱいだった。上手く息ができなくて、震える手をぎゅっと握り締める。それでも視界が滲んでいくのはどうしても止められなかった。 「っ、そうま……」  口から溢れた君の名前。応えてくれる声も、笑顔ももうなくて。いつも温かかった隣には何もなくて、冷たくて。  頬を滑るように落ちていったものが音もなく地面に吸い込まれていく。ぼやけてもうほとんど見えないのに、奏真の後ろ姿が消えた方向からいつまでも目が離せなかった。  奏真が好きだった。ずっと隣にいたいと、ずっと一緒に笑っていたいと思った。こんな気持ちは初めてで……でもきっと遅かったんだ。  もう少し早くこの想いに気付けていたら。そうしたら何か違っていたのかな。もっと早く奏真に伝えていたとしたら、報われる未来があったのかな。  そんなこと考えたってもう仕方がないのに。意味がないのに。もしもの世界の話に答えなんてあるわけがないのに。……馬鹿みたいだ。  人気の少ない放課後の校舎は静かで。遠くから聞こえてくる運動部の掛け声と壁にかけられた時計の針の音。当然のように変わらず動いていく世界は、廊下でひとり取り残されたままの私を更に置き去りにしていく。  こんな風に泣いていたら、まるで奏真たちを悪者にしているようだという思いがふと湧いた。きっと泣いてはいけない。彼らにとってこれは幸せなことで、めでたいことだから。応援しなくちゃ。今までのように、また……  なんて、不器用な私にそんなことできるわけがなくて。  泣くのを止めることなんてできなかった。指先がみっともなく震えて、息が揺れて、声を抑え込むのが精一杯で。 「そんなの……できないよ……」  痛いよ。苦しいよ。助けてよ。そんな言葉ばかりが回る。切り替えないと。そんなことわかってるんだ。でも、すぐになんかできなくて。  私は小さく息を吸い込んだ。  今だけは……今だけは、泣くのを許して。明日にはまた今まで通り笑ってみせるから、だから今だけは。 「っ……」  流れていく涙をそのままにぎゅっと手を握り締める。  ――これは、私の中の君に贈る最後の言葉。  大好きでした。すごく、すごく好きでした。幼馴染みとしてでも君の隣にいられたことが、今まで側で君を見ていられたことが嬉しかった。  君に抱く感情全てが初めてで、好きになったことに後悔なんてない。本当は君に振り向いてほしかったけれど、本当は君に私の隣を選んでほしかったけれど、でも君が幸せならそれでいい……そう思うから。  だからどうか、幸せになってください。私の心の中で落ちたその言葉はじわりと身体に染み込んでいって。心臓が締め付けられたかのように痛みを訴えかけてきたけれど、私はそれを無理やり無視して抑え込み目を瞑った。  ありがとう、私に恋を教えてくれて。好きを教えてくれて。  ……さようなら、私の初恋。  夕焼けに染まった誰もいない廊下でひとり、私は蹲って暫くの間涙を流し続けた。
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