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「待ってください!」
閉まりかけたドアにセールスマンの革靴がガッと挟まった。
このまま力いっぱいドアノブを引き続け、どちらが退くかのチキンレースをしてもいいのだけれど、セールスマンの足が千切れて血飛沫の舞う様をうっかり想像してしまった私は、しぶしぶ力を緩めることにする。
「ありがとうございます。お姉さん、力強いですね!」
「セクハラですか?」
「いえいえ! 滅相もない!」
貼り付けたような笑顔で身振り手振りする彼の脇には、一個の球がしっかりと挟まっている。いいや、ひょっとしたら、それは〈一個〉と呼ぶよりも、〈一冊〉と呼ぶほうがまだ、定義としては正しいのかもしれない――電子書籍だって、〈冊〉で数えるのだ。
球体になった小説だって、〈冊〉でいいだろう。
「こちらが我が社の商品になります」
汗だくになった彼が私に手渡したのは、バスケットボールサイズの球だった。球はよくよく見てみると、サイズの異なる紙が重なってできている。
セールスマンの彼が言うには、どうやらこれは小説であるらしい。
確かに、数ページほどめくってみると、誰もが知っているようなベストセラー小説の表紙が見えてきた。
どうやら前半の数ページは、この小説を球形にするための部分であるらしい。しばらくパラパラをめくっていくと、並んでいたはずの文字は四方八方に散らかり始め、半分ほどまでいくと、もはや小説としての原型すら留めていなかった。ゲシュタルト崩壊とか以前に、小説として崩壊している。
「お姉さんは読書家だと伺いまして、この商品を紹介に参った次第でございます」
セールスマンは額の汗をハンカチで拭いながら言う。
確かに、私の部屋は本であふれている。自分を読書家であると公言することは恥ずかしがるだけの常識は備えているし、本の虫という言葉の語源は結構えげつない悪口だということも知っていたけれど、それでも並みの人間よりは本に触れていると思う。
けれど。
それにしたって。
「まったく……セールスマンさん、いったい何がどうしてあなたは、小説を球形にしようと考えたんです?」
私はあからさまに面倒そうに、髪に手櫛を入れながら言う。
これまで、色々な本を読んできた。
全ページが袋とじになっている本。表表紙と裏表紙、どちらからでも読める本。巨大な本。小さな本。入れ子構造の本。読む順番によって結末が変わる本……この世界には、ありとあらゆる不可思議な本が存在する。大方、他の作品との差別化を図ったものなのだろうけれど、それにしたって、意味のある変さなのだ。
けれど。
「これ、まずもって表紙がないじゃないですか。表紙ってのは、いわば小説の顔ですよ。これがないと、いくら面白そうな本でも手に取りずらいし、最初の1ページを開いてもらえるかどうかさえ分からない。本の表紙ってものは、とても重要な部分なんです。」
私はその小説(?)を手に取って、手のなかで回してみせる。どこにも表紙らしきものは見当たらない。カバーも、タイトルも、どこにもない。
それはそうだろう。
球体なんだから。
〈人は見た目が九割〉なんて下品な言葉が流行る世の中で、あえて小説の顔である表紙を無くしたと考えると少し意味ありげだが、おそらくこのセールスマンに、外見至上主義に一石投じようという気も一筆投書しようという気も微塵もないだろう。
ミジンコたりともないだろう。
「それに、無駄なページが多すぎます。いくら球形にするためとはいえ、一介の読書好きとして紙の無駄遣いは許せません。環境をもっと大切にしてください。」
「……であれば、電子書籍を使用すればいいのでは?」
球形の小説を売りに来てるあなたがそれを言うの⁉ いや紙の小説のほうが栞を挟めるし実際にめくれるし目が疲れないし愛着がわくしコレクションにもなるし……という気持ちをぐっとこらえて、私は、バッ! と本のページを開いてみせた。
「見てください、私の手を。」
めちゃくちゃ持ちにくそうでしょう。
セールスマンはほうほう、とうなずいて、私の手を覗き込む。私の手は女子にしてはかなり大きいほうだけれど、それにしたって、この本の球を持つとなると、指を目いっぱい張らなくてはいけない。
こう見えて結構、本と読むという行為は指を酷使する趣味なのだ。
見開いたページの両端を親指で抑え、他の八本で背表紙を支える。
ページを読み終えたら、左手の親指を少し離して、ページをめくり――右手の親指で、キャッチする。
「それが、この球形だと――めちゃくちゃやりにくいんです。この小説は、本として不成立なんです」
本として成立しない小説。
そんなもの、違っている。
球体の小説だなんて――馬鹿げている。
間違っている。
「本の形と言えば四角形だと、和綴じの時代から相場は決まっているでしょう……だいたい、どうして小説を丸くしようとしたんですか。」
私はそう言って、早々にドアを閉めようとした。完膚なきまでの正論で、これ以上ないほどの正解を叩きつけたつもりで、ドアのノブをぐっとこちらへ引く――ところで、セールスマンがぼそっと、
「ずばり、この本の良い点とは……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………積読ができない、ということです。」
と、三点リーダーが62個入るくらい言葉を溜めて、呟いた。
「は?」
予想外の言葉に、ドアを閉める手が止まる。
セールスマンは続ける。
「我々読書好きの陥る罠とは、ずばり本の買いすぎによる『積読地獄』にあると言えましょう。失礼ですがお姉さん、積読は何冊ほどありますか?」
「……」
私は部屋のなかの本棚を想起する。
好きな作家の本だけれどページ数の多い本。
購入直後に失恋し、開くに開けなかった純愛小説。
夜中に読んで眠れなくなったホラー小説。
書き口が難しくて食指の進まない推理小説。
改行の少なすぎる古典文学。
軽すぎて飽きてしまったライトノベル。
背伸びして買った海外文豪の小説。
思い当たる節が多すぎる。
思い当たる小説が、ありすぎる。
「十秒」
すると唐突に、セールスマンの男がそう口にした。
「お姉さん、さきほどまでの回答はほとんど即レスだったのに、この質問だけでももうすでに十秒ほど経ってしまっていますよ……今、きっとあなたは積読を数えている途中ですね?」
「くっ……」
唐突に図星を突かれ、図らずも焦ってしまう。
確かに、積読が罪ではないことは、読書家のあいだではもはや不文律になりつつあるけれど……けれど、一般的な思考回路をもってすれば、そうなのだ。異常なのだ。
まだ読み終わっていない本があるのに、別の本を買う行為。
それは例えば、まだ調理していないキャベツがあるのに、スーパーでキャベツを新しく一球買ってしまう行為に似ている。
それは例えば、まだ使い切っていないドレッシングがあるのに、スーパーで別の味のドレッシングを買ってしまう行為に似ている。
順当に、古いものから読むべきなのに。
新しいものや、興味関心のあるものにばかり目が行ってしまう。
それを異常と言わずして、なんと言えよう。
それでもセールスマンは笑って言う。
貼り付けたような、球を転がすような声で、笑って言う。
「いえいえ、滅相もない。積読は読書家のたしなみですよ。私の家にも二十冊ワンセットの平積まれた小説の塔が、五本は建築されています。なにも積読してしまう読書家の怠惰を追訴したいわけではありません」
二十冊ワンセットの平積まれた小説の塔が五本? それって余裕で百冊超えてるのでは? とは思ったけれど、そこは声に出さずに、セールスマンの調子に合わせることにした。
「つまり、こういうこと? 『未読の小説を積んでしまうのは、小説が積める形にできているからだ』……『だから、小説の形そのものを変えてしまえばいい。球形の小説は、積むことができない』。」
「おっしゃる通りでございます」
私は歯を食いしばる。自然と拳に力がこもる。
なんて、身勝手な。
けれど、納得せざるを得ない――なぜなら、私たち読書好きは、積読は間違っていない、やっても良い行為なのだ、と自分自身を誤魔化し、正当化してしまっている。
そのことを突かれたとき、如何様にも反論ができないのだ。
本を買う。
読む。
読み返す。
読後感に浸る。
本棚にしまう。
一冊分狭くなった本棚を見て、〈自分の本棚〉が完成されていくことに充実感を覚える。
そう言う一挙手一投足の、おおよそ予測可能であろうスケジュールに対して、あまりに本を購入する速度が速すぎることを、知っている。
これはもう、ダイエット中についお菓子を食べてしまうようなものだ。
明確に、明瞭に――〈罪〉なのだ。
知っている。
理解している――だからこそ。
「球形の本ならば、積読はなくなる――〈罪悪感から逃れられる〉。」
本を重ねることもなく、
罪を重ねることもない。
くっ……ここで屈する私でありたくないが、しかしながらよくよく考えてみれば、球形の本というものも少し気になるものだ。なんか近未来的な設定のコンセプトカフェかなにかのなかでこの本を読みたい。未来人の気分で現代の小説を読みたい。
そして読後、こう思うのだ。
あーあ、この本、100年前はベストセラーだったんだなあ……。
このころってまだスマートフォン使ってるんだなあ……。
このトリック、今だったら成立しないなあ……。
やってみたい‼
「…………おいくらですか」
私は三点リーダー四つ分ほど溜めて言った。
セールスマンはにやりと笑って言う。
「530円です」
「普通の文庫本と同じ値段なんだ」
……二か月後。
日本国内を、ある死因が席巻していた。〈圧死〉である。
私は寝起きの目をこすりながら、テレビのある方向へ転がった。傍に置いてあるリモコンを操作してチャンネルを変える。今の時間帯はだいたい、ニュース番組ばかりだった。アナウンサーの女性が、綺麗な声で台本を読み上げる。
「先月、都内マンションにて、女性が圧死した状態で発見されました。警察は事故死として捜査を進めています。相次ぐ圧死事故。警察は原因は未だ不明としていますが、いったい原因はなんなんでしょう。専門家の……」
またか。
と、私は呟いてチャンネルを変えた。
連続圧死事件。
ミステリ好きとしては気になる内容ではあるけれど、しかし私がこの事件に興味がないのは、事件の真相を知っているからである。どうしてみんな死んでしまうのか、知っているからである。
私は手元のスマホの電源を入れ、ツイッターを開いた。タイムラインは昨日よりも過疎化が進んでいる。今日は金曜日なのに、毎週金曜日に読んだ本の感想をツイートしている読書アカウント、「めるめる@読書垢」さんのツイートが昨日から更新されていない。
とうとう、この方も亡くなったか。
そういえば、めるめる@読書垢さんは、東京住みだと聞いたことがある。今朝の報道の人物こそ、めるめる@読書垢さんなのかもしれない。
「まあ、しょうがないよね」
私はスマホを閉じると、本のうえに置いた。そして、それだけで、なにもしなかった……というか、できなかった。
すでに、手も足も出なかった。
〈『球充填問題』〉というものがある。
互いに重なり合わない球を空間に充填する際に、どれだけ高密度で詰め込むことができるか、という問題だ。著名なものであればケプラー予想なるものもある、結晶学・固体物理学の王道である。
今、私の部屋のなかを占めているのは、球充填問題の回答例のひとつ――〈立法最密充填格子〉の構造で詰め込まれた、球形の本だった。
二か月前、私は球形の本を買った。これで、積読することはもうなくなると考えたからだ。
けれど、思い返してみれば、積読というものは、本を積むためのものではもちろんない。賽の河原の子供たちのように、本を積み上げることを目的としていない――本を購入すること。読みたくなってしまうがゆえの、購買欲によって生み出されるものだ。
買いたいと思う、力。
手元に置いておきたいと思う、欲。
積読ならぬ、詰読。
「……積読は本の形状では解決しない」
球形の本によって充填された、本の網の部屋のなかで、私は逆さまになって――球形の本によって、支えられていた。
いいや、縫い目を用いて、そのなかに住み込んでいる、というほうが適切かもしれない。すでに、目の前に天井があるような状態だ。
おそらく、その部屋を構成している本のうち、半分もまだ読んではいないのだろう――ぎっしりと詰め込まれた球形の本は、取り出して再び読むことができるのかどうかも分らない。
そしてきっと、今発生している圧死事件も、この〈立法最密充填格子〉によって構成された本が原因だろう。本に潰されて死ねるなんて、読書家としては本望かもしれないけれど……どうだろう、実際に死んでみて、夢が叶ってよかっただろうか?
ぼうっと天井を眺めていると、インターホンが鳴った。
私はほふく前進で玄関まで向かうと、傘を使って器用にドアノブを開けた。
「お届け物で……す……」
私の姿を見た配達員の男性は、あんぐりと口を開けて私を見上げる。当たり前だ。〈立法最密充填格子〉の本でできたこの部屋は、すでに玄関まで侵食していた。
私は手を伸ばして、彼の持つ段ボールを受け取った。
見るからに分かる。
本である。
注文した本のタイトルは、『復讐の作法』だ。
復讐を敢行するにあたって、必要なことが書いてある。前作『復讐の復唱』『復讐の手段』『復讐の下準備』『復讐の支度』も購入済み。あとはシリーズ最終作、『復讐の復習』を読めば完璧だ。私はこの本を読んで、あのセールスマンに復讐する。
騙された。
球形の本なら、積読できない……と、嘘をつかれた。
騙されたのだ。
復讐しなくてはいけない。あのセールスマンの家を、〈立法最密充填格子〉で満たして、圧死させてやる。私が〈立法最密充填格子〉によって圧死するまえに。
と、それ以前に、積読を消費しなくては。
まずは先週購入した、ホラー大賞受賞の『OTHER』とファウスト賞受賞の『不来未来』、『運ぶね』、『backdown』も読まなくては。
私は球形の本を開くと、続きを読み返し始めた。
またこの部屋に一冊、本が増えたことを忘れて。
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