黒猫と影の季節

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黒猫と影の季節

 黒猫は不吉なもの。そう云われているのは何故なのだろう。  外国では黒猫は魔女の使い魔とされているから? 暗闇でも光る瞳が不気味だから? それとも、あまり良いイメージのない黒という色を持っているから?  色々な場面で忌み嫌われることの多い黒猫だけれど、とある日だけは違う。今やお菓子を交わし合い仮装を楽しむ明るいイベントとなりつつあるその日においては、黒猫は歓迎される対象のひとつ……  そして十月も半分を過ぎた今、その日がいよいよ近付いてこようとしていた。 ◆◆◆ 「わあっ、猫だ!」  朝の光に包まれた住宅街。すれ違ったばかりのランドセルを背負った小学生が発したその声に登校途中の黒沢彩は振り返った。 「お母さん見て見てっ、黒い猫さんだよ!」  興奮した様子で少女が指差した方向には、道の端でのんびりと毛繕いをする一匹の黒猫。自身に視線が集まっていることを感じ取ったのか、顔を上げた猫はさっと身を翻し軽快な動きで側の一軒家の塀へと飛び乗ると、あっという間に視界から消えてしまった。あーあと残念そうに少女の声が響く。  それでも黒い猫がよほど珍しかったのか、はしゃいだ様子の少女をほんとねえと母親らしき女性が微笑ましげに見守っていた。そんな平和な朝の日常の一ページ。 「黒猫かあ……」  何となく止めていた足をまた学校に向けて進めながら、彩はポツリと呟いた。  黒猫。あまり良い印象は浮かんで来なかった。  言い伝え的なものを信じていた祖母の影響からか、黒猫と聞くと不吉だとか近寄ってはいけないものだとかいう悪いイメージの方が濃い。さすがに今のような明るい朝に見かけても騒ぐようなことはしないけれど、不気味だなとつい避けてしまうことは多い。あの小学生のようにはしゃいで喜ぶようなことはしたことがなかった。  やはり猫のように親しみやすい小動物は子供に人気があるのだろうかと彩はぼんやりと考えながら歩く。すると丁度その時目についたお店のショーウィンドウに、金色の瞳を持つ黒猫の大きなぬいぐるみが飾られていて。 「あ、そっか。もうすぐハロウィンなんだ」  オレンジ色や紫色、それから黒色を主とした豪華な装飾。カボチャの形をしたお洒落なランタン。黒猫だけでなく魔女やヴァンパイア、コウモリなど多種多様のキャラクターたち。それらは秋の人気イベントの訪れを表していた。  小学生の頃は身近に感じていたイベントも、高校生となった今ではあまり関わりのないものとなってしまっている。そのことを少し寂しく思いつつ彩はショーウィンドウに背を向けた。  黒猫のぬいぐるみが、何故かやけに強く脳裏に焼き付いていた。 ◆◆◆  彩の通う学校の図書室は、放課後になるとそこだけ他から切り離されたかのように静かな空間と化する。鼻をくすぐる紙の香り。視界を埋め尽くす本棚。けれどそこにページを捲る音や椅子を引く音が立つことはほとんどない。  一つの本棚の前で彩は手の中のリストをじっと見つめていた。在庫表と記された下に連なるタイトルの一覧。なかなか見つけられず彩が一人黙々と格闘をしていた時だった。 「ねえ、放課後の図書室ってどう思う?」  唐突にそんな問いかけをしてきたのは、カウンターで退屈そうにパソコンの検索画面を眺めていた高峰千尋だった。 「どうって……」  ようやく一冊見つけた本を棚から抜き出して、彩は戸惑いつつも答える。 「静かで落ち着くしいいんじゃないかな」 「静か、ねえ。いささか静かすぎる気はしない?」 「でもあまり人が来ないのは今日に限ったことじゃないし、いつもこんな感じだし……」  確かにこの放課後の図書室は人気が少なくて寂しいのだとは思う。けれどそんな風景にもここ一か月間ですっかり慣れてしまったから、まあこういうものだろうという感想しか浮かんでこなかった。 「じゃあ彩は、放課後の図書室に人が来ない理由は何だと思う?」 「理由?」  一度会話が続いたからか、それとも画面で目が疲れたからか。千尋はパソコンから外した視線を空席だらけの室内へと向けた。背表紙のラベルを辿りながら彩はまたうーんと考え込む。 「えっと、教室から遠いから……とか?」 「なるほどね、他には?」 「ええ、他にかあ……他は何だろ……」 「シンプルに本に興味がないからじゃないか?」  不意に二人の間に割り込んだ声。ガラガラとワゴンを引きずって書庫の方から姿を現したのは一人の男子生徒、大江克哉だった。 「本って眠くなるだろ。それに俺ら高校生に読書なんてしてる時間ないしさ。わざわざ時間作って借りに来て、期限内に読んでまた返しに来る……なんて面倒だろ」  俺だって図書委員じゃなかったらこんなとこ来ないね、と克哉はおどけたように言って肩をすくめる。その姿に千尋は眉をひそめた。 「大江はただ本が嫌いなだけでしょ? 全く参考にならないから。この学校に本好きな人が本当に一人もいないのか、もしいるのなら図書室に来ないのは何故か、それを答えてよ」 「無茶なこと言うなよ……。そんなの俺にわかるわけないっての」  普通は私語を慎み、静かにしていないといけないはずの空間。大声で会話だなんてマナー違反にも程がある行為だけれど、三人だけの図書室でそれを注意する人はいない。つまり会話が途切れることはほとんどなかった。 「どう思うかだとか理由だとかさ、高峰は普段からつまらないことばっか考えてるよな」 「つまらないなんて失礼ね。十分面白いし暇潰しにはいいでしょ、ちょうど今みたいにとっても退屈な時とかさ」  テンポ良く紡がれる二人の声を楽しみつつ、彩は新たに引き出した本を机上に重ねてよいしょっと立ち上がった。本棚の方を向いていた体を振り返らせれば、呆れたような表情を浮かべて立つ克哉と、その側のカウンターに頬杖をつき見上げる千尋の姿が視界に入る。 「俺には良さが全くわからないね。というか暇とか言ってそんなの始めるくらいなら、高峰も少しは俺らを見習って働けよな。見ろよほら、黒沢なんかめちゃくちゃ作業進めてるぞ」  突然二人分の視線が集中した彩はキョトンと首をかしげた。その腕の中にはいつの間にか大量の本が抱え込まれている。持ちきれず、本の上に無造作に置かれたリストは綺麗にマーカーで埋め尽くされていた。 「……彩はこういう作業合ってるよね」 「そうかな? でもうん、この仕事は結構好きだよ。千尋ちゃんもこの間図書委員の活動は好きって言ってなかった?」 「でも退屈なものは退屈だよ。利用者がいないんだから仕事も毎日毎日同じことの繰り返しだしさ。何か面白いことの一つくらいあってもいいじゃん……!」  そう悲しそうに嘆いて、はあっとため息をつく千尋。その様子にまた始まったと苦笑いを浮かべる克哉。  面白いこと……とその言葉をもう一度頭の中で再生してみて、そういえばと彩は千尋を見た。 「二人にとっても面白いかはわからないけど……。今朝ね、黒猫を見たの」 「黒猫?」 「うん、すぐに逃げちゃったんだけどね。それを見た子供が黒い猫だって嬉しそうにはしゃいでて。私の中では黒猫って悪いイメージがあるから、その反応がちょっと新鮮だったの」 「悪いイメージってどんなのなんだ?」  彩の言葉に克哉が少し興味をもった様子で身を乗り出した。 「黒猫は不吉ってやつだけど……昔魔女の使い魔とされていた動物だったからなんだって」 「ああ、それは俺もなんか聞いたことあるかも」 「彩が言ったその話は有名な言い伝えだからね」  まあ大江でも知ってて当然でしょ、と馬鹿にしたような口調で千尋が言ったのに対し克哉は余計なことを言うなと言わんばかりに軽く睨んでいる。また言い合いにでもなりそうな雰囲気が立ち込めたけれど、意外なことに先に目を逸らしたのは千尋の方だった。 「ねえ彩、良いこと教えてあげる」  ニヤニヤと楽しむような笑みを浮かべて。側に立つ彩を見上げながら千尋は続けた。 「黒猫は確かに不吉って言われているけど、そのイメージの元は西洋なの。つまり元々は日本にはなくて輸入されてきたものなんだよ」 「そうなの?」 「魔女狩りが行われていたのだって日本じゃなくて西洋だしね。日本で昔から言い伝えられていた黒猫のイメージと、その西洋のイメージ……不吉だとか悪いものだとかそんな風に捉える考えとは全くの別物ってわけ。むしろ正反対。日本では黒猫は悪いものじゃなくて、福を招くとか魔除けとか縁起の良い動物として……えっと確か平安の頃からだったかな、とにかく昔から扱われてきてたんだよ」 「ええっ! 本当に真逆の意味だ……」  ずっと不吉だと思っていた黒猫が、福を招く動物と云われていたなんて。全然知らなかったと彩は目を丸くする。その隣で克哉が納得がいかないといった風に眉をひそめた。 「じゃあその高峰の話で行くとさ、あれはどうなんだよ」  彼の指差す方向を追えば、先週貼り替えたばかりのハロウィン仕様の掲示物。愉快なタッチで描かれたお菓子やお化け、そして黒猫のイラスト。 「ハロウィンに黒猫を使うのは日本人にとっては微妙なんじゃないか? だって福を招くっていう猫を悪者扱いしているわけじゃんか。しかも魔除けの効果も持ってるっていうなら、魔要素しかないハロウィンに使ってちゃダメだろ」 「あ、確かに……」 「まあそうなんだろうけど、ハロウィンこそ外国から来たものだし今となってはすっかりそれで浸透しきってるしね」  あたしも何でも知ってる訳じゃないよと千尋は肩をすくめた。確かに今のハロウィンとその日本で言い伝えられてきたイメージは矛盾している気がするけれど……と考える彩の脳裏をよぎったのは、今朝見かけた店のショーウィンドウ。そこに飾られていた黒猫のぬいぐるみはハロウィンを意識したレイアウトの中で当たり前のように置かれていて、実際彩も何の違和感も感じなかった。本当に浸透しきってしまっている。 「昔の人も一番最初は反対してたのかもしれないね」  彩の口から溢れたその言葉にいち早く反応したのは克哉だった。 「ハロウィンが取り入れられた時ってことか?」 「それもかもしれないけど、黒猫が使われ始めた時とか……かな」 「いいじゃん、本当にそうだったら面白そう!」  キラキラと興奮したように目を輝かせて千尋が身を乗り出す。 「あたしは読んでみたいよ! そういうお話ないかな、探してみようかな」 「まあ歴史系だし、ちゃんと調べたら見つかりそうだな」  はしゃぐ千尋に対して、良かったな暇潰しが見つかってと声を投げ掛ける克哉は完全に面白がっている様子だ。彩は曖昧に笑っていたけれど、千尋の多方面に深く広がっている知識はこうして増えていくのかと考えると少し興味深かった。 「ハロウィンと言えばさ」  ふと克哉が思い付いたように言葉を紡いだ。 「ずっと気になってたんだけど、何で仮装するんだ? なんか最近のはコスプレ大会みたいになってきてるよな」 「あれ、もしかして知らないの?」  目を見張った千尋に私も知らないと彩が答えると、意外そうに千尋は瞬きをした。 「ハロウィンの仮装は自分の身を守るためなんだよ」 「守るため……? 何から守るの?」 「別にそんな危険なイベントじゃねぇだろ」 「今はそういうただ楽しむだけのイメージが濃いけど、これも昔とは全然違うからね。第一ハロウィンはお菓子をもらうのがメインのイベントじゃないから」  またまた物知りな千尋の出番だった。こういう雑学的な話題になってくると千尋は強い。 「ハロウィンが近付いてくると、徐々に死後の世界と現実の境界みたいなものが緩んでくるんだよね。先祖の霊とか悪霊とかが這い出てきて町を歩き回るんだよ。だから人間だってバレないように仮装をしてるってわけ」 「へー」 「それってバレちゃだめなの?」 「当たり前だよ!」  千尋はどこか芝居がかった動作で勢いよく両腕を広げた。 「バレたらね、悪戯なんて可愛いものじゃ済まない。あっちの世界に無理やり連れていかれるんだよ……!」  ダンッとカウンターを力強く叩いて、演劇でもしているかのように声を響かせて。意気揚々と語った千尋はどうだと言わんばかりに二人へと視線を送り、ポカンとしている彩と克哉を見るとたちまち不服そうに頬を膨らませた。 「むう、二人とも反応悪いなあ。もっとこうさ、怯えたり怖がったりとかないの?」 「いや子供じゃないんだしそんなんで誰もびびらないって」 「うん、それにあんまりピンと来ないかな……」 「もー面白くないなあ! 聞いてきたのはそっちでしょ! ちゃんとリアクション取ってよもう!」  不貞腐れてしまった千尋に彩と克哉はプッと吹き出した。物凄く博識なのにコロコロと表情を変える千尋が可笑しくて面白くて。初めに会話を始めてから結構な時間が経っていることにも気が付かずに笑い続けた。  図書室に楽しそうな声が響き渡る。止める理由なんてここにはなくて。  いつも通りの放課後。これが彩の大好きな日常だった。 ◆◆◆  閉館の作業を終えて鍵を司書の先生に返せば、彩たちの図書委員としての一日の仕事は終了だ。電気の消えた教室が並ぶ、心なしか図書室よりも静かに感じる夕焼けに染まった廊下を三人は歩いた。  タンタン、と上履きが立てる音が響く。窓の外、遠くの方で五時のチャイムが鳴っているのが微かに聞こえてきて。各々の昇降口を出た後再集合して揃って帰路につくという、そんな流れがいつの間にか自然と出来上がっていた。 「あ、そうだ。あたしちょっとコンビニ寄りたいんだよね」  不意に千尋が思い出したようにそう言った。 「今日シャーペンの芯切らしちゃって」 「わかった。じゃあこの辺りで待ってるね」 「ありがと彩、急いで買ってくるから!」  横断歩道を挟んで向かい側に建つコンビニへと千尋が駆け出していく。それを見た克哉が鞄を肩にかけ直しながら振り返った。 「なら俺も今のうちに自転車取ってくるわ」 「うん」  引き返していく克哉の後ろ姿をいってらっしゃいと彩は見送る。三人から一気に一人になったことで急に静けさが増してきて、何だか落ち着かない気持ちが込み上げてきて。  気を紛らわすように彩は辺りへと視線を向けた。  都会とまでは言えなくとも、そこそこ賑わいのある土地に彩たちの学校は建っている。周辺にはマンションなど高い建物も多い上に、文房具店や図書館、スポーツショップにショッピングモールまでもが駅との間に並んでいて、学生としては嬉しい環境が揃っている。  そこでハッと彩は気付いた。 「そっか、図書館だ」  学校の図書室に人が来ないのは、近くに大きくて広い図書館があるから。そんな理由もあるのではないか。 「千尋ちゃんに教えてあげなきゃ」  先程千尋の納得する答えを上手く見つけられなかったことを密かに気にしていた彩は、嬉しそうにそう呟いて鞄を持つ手に力を込めた。その時だった。 「え、わっ、風が……!」  ヒュウッと突如勢いよく吹き付けてきた風。その冷たさと強さに小さく声を上げて、反射的に目を瞑った彩が次に目を開いた時に見たのは―― 「え……」  ――黒い、影だった。  何あれと発したはずの彩の音は形になることなく消えていった。行き交う車の間から見えるそれは、ユラユラと道路の反対側で手を振るようにその全身を動かしている。  目を凝らしてみてもただ黒いことしかわからず、影としか言い表せなくて。不気味で異質な光景に戸惑い、段々と恐怖の念が込み上げてくる。  その影が、また、揺れた。 「っ……」  その瞬間、金縛りにでもあってしまったかのように彩は動けなくなった。辺りの音、体の感覚が遠退いていく。指一本動かすことができない。その影から視線を逸らすことさえもできない。  ただ頭の中で、あれを見てはいけないと激しく警報が鳴り響いていた。  そんな彩の様子を楽しむかのように、ユラユラと影はその動きを一層大きくして揺れている。止まる気配はない。正体もわからない。行き交っていたはずの車が消えた。少なからずいたはずの通行人の姿も彩の視界には入らなくなった。 「あ……」  影が、じっと彩を見つめていた。目なんてどこにあるかもわからないのに。それでも見られているのだと彩はわかった。手招きをするかのようにまた影が揺れる。  その動きにつられて、彩はついに一歩を踏み出した。  何も考えられなかった。思考が霞む。視界がぐらぐらと揺れる。ただ目の前の影を目指してよろよろと少しずつ歩を進めていく。  あと何歩だろう。まだ遠い。もっと近くへ、近くへ行かないと。  ふらふらと不安定に揺れる彩の足が白線を踏んだ、次の瞬間。 「にゃあ」  どこからか聞こえてきた猫の鳴き声。音のなかった世界に突然響いたその声に彩はビクリと肩を揺らして、バランスを崩して。 「キキーッ!」  派手なブレーキ音と盛大なクラクション。後ろに尻餅をついた状態で呆けたままの彩の目の前を、物凄いスピードで走り去っていった一台の自動車。 「……え?」  何が起こったのかわからず彩はパチパチと瞬きをした。確かにさっきまでいたはずのあの影はいつの間にか消えてしまっている。歩道のギリギリで座り込む自分の姿と、すぐ目の前を通り過ぎていった車の後を呆然と見つめた。 「彩!」  横断歩道を渡って、慌てた様子で駆け寄ってくる千尋が彩の視界に映った。 「千尋ちゃん……」 「すごい音がしたけど大丈夫? なに、もしかして事故? 怪我は!?」 「あ、私は大丈夫……」 「え、なに、何の騒ぎ?」  自転車を引きずって現れた克哉が、怪我はないかと騒ぐ千尋と座り込む彩を見て何かあったのかと戸惑ったように尋ねた。一気に戻ってくる音のある世界に、まだ覚めきらぬ頭で彩は視線を彷徨わせた。  ふと、彩たちから数メートル先、こちら側の歩道に立つ一匹の猫に目が止まった。その色が黒色なのを見て体がすうっと冷えていくのを彩は感じた。  黒猫だ。黒猫が、彩たちの方を見ている。一歩も動くことなくそこに留まっている。それが何だか不気味で彩はひゅっと息を飲んだ。その時。 「にゃあ」  黒猫が鳴いた。  その声にハッとして彩は目を見開く。黒猫はその金色の大きな瞳をスッと細めて、じっと静かに彩を見つめて……  しばらくして、黒猫はのんびりとした動作で立ち上がると、そのままくるりと身を翻して身軽な動きで駆けていってしまった。その後ろ姿が消えていった方向を見つめたまま、彩はぎゅっと手を握りしめた。 『黒猫は福を招くとか魔除けとか縁起の良い動物として昔から扱われてきたんだよ』  図書室での千尋の言葉が甦る。黒猫は福を招く。魔除けをしてくれる。不吉なものじゃない…… 「……そっか」  ポツリと彩は呟いた。 「そういうことなんだ」  さっきまではわからなかった、納得できなかったけれど。 「私を守ってくれたんだね」  答えてくれる鳴き声はなかった。あの瞳も姿ももう見えない。けれど、彩は確信した。  あの黒猫が助けてくれた。影に引き寄せられるように道路へと飛び出しかけていた彩を、現実に戻してくれた。車から守ってくれたんだ。 「彩?」 「黒沢、どうかした?」  まだ心配気な様子の千尋と克哉がそう尋ねてくるのに、彩はふるふると首を振った。 「ううん、何でもない」  私は大丈夫だよ、と彩は笑ってみせた。それからずっと座り込んだままだったことにようやく気が付き、さっと砂をはたいて立ち上がる。 「念のため病院行った方がいいんじゃない? やっぱどこか怪我してるかもしれないし、ほら後から痛くなってくるかもしれないし! あたし付いていくよ? 一緒に行くよ?」 「っていうかその車はどこ行ったんだよ。まだその辺にいるなら俺が走って追い掛けて……」 「だ、大丈夫だってば! 二人とも落ち着いて……!」  今にも何かし出しそうな勢いの二人を慌てて宥めて、もう帰ろうと背を押す。渋々といった様子で歩き出してくれた千尋と克哉にホッと胸を撫で下ろした彩は角を曲がる直前、最後にと振り返った。  もう誰もいない道路。猫の姿なんてなくて全部が夢だったかのように静かだった。 「……ありがとう」  黒猫が消えていった方向に向けて、彩はそっと微笑んだ。そうして体の向きを戻すと、先で待つ二人の元へ駆け出す。その足取りは憑き物が落ちたかのように軽くて。   「にゃあ」  ほんの少しの冷たさを含んだ十月の風が、夕方の世界をふわりと流れていった。
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