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「逃げよう」
とレンが囁いた。
「いや、待て」
ヤタツはそう言って藪から立ち上がった。
峠を越えて旅をする女芸者を真似て美麗な女に変化し、笑顔を浮かべて彼女に近付く。
ヤタツは人を、それも若い女をこんな間近でみたのは初めてだった。
爺様や婆様が変化できるのは野良仕事をする頬かむりをした男や、行商にくる中年の女くらいで、もぎたて林檎のような頬をして、鈴を転がすような声で話す、美しく可憐な少女を見たのは初めてだった。
「いい匂いだねえ」
ヤタツは他に言うことが思い浮かばず、さっきから鼻をくすぐる花の蜜を煮詰めたみたいな甘やかで濃厚な匂いの事を口にした。
少女はヤタツが同性なのに気を許したのか、笑顔になって酒の入った陶器の酒瓶を見やった。
「お父様の秘蔵のお酒なの。お正月と祭りの夜に限って少しづつ大事に飲んでいるお酒。八つ当たりに持ち出して来たんだけど、貴女に全部差し上げるわ」
「へえ、そりゃありがたい」
ヤタツは酒瓶を受け取り、さっそく栓を抜いてひと口味見をしてみた。
芳醇な香りと眩暈を起こしそうな強烈な酒精が五臓六腑を駆け巡る。
「たしかに上等な酒だね」
酒瓶を抱え、ヤタツはうっとりと頷いた。
「ところでどうして泣いていたんだい?」
ヤタツは少女の赤い目を見て尋ねた。
「お父様が私を隣村の庄屋の後妻にやるというの。親子ほども歳の離れてしかも腹の出た頭の薄い醜い男よ。あんな人の所へ嫁ぐなんて絶対いやなのに」
少女は悔しくて唇を噛んだ。
駄々をこねようと家を抜け出そうと酒を盗もうと、父の決断に逆らえないことはわかりきっていた。
跡取りの兄は病弱で弟は幼な過ぎ、村長として村人が納めきれなかった年貢の肩代わりや、治水事業の負担金、農地の開墾にかかる費用の出資など、父の責務と負担は数えればキリがない。
隣村の甚右衛門は広い農地と沢山の小作人を抱えた裕福な豪農だ。
縁付けばいろいろ融通を利かせてくれるだろうし、兄が家を継ぐ時までに盤石な後ろ盾が欲しい父にとって蝶よ花よと育てた娘は最適な貢物、家の安泰のための布石なのだ。
甚右衛門は、3年前に前妻を病で亡くした。
しっかり者だった前妻が存命中は頭を抑え込まれていたのか、前妻が鬼籍に入ってしまってからというもの信心深かった性格が一変、飲む打つ買うの三拍子ではないが、夜通し皿を叩いて調子の外れた歌をがなり、連れ込んだ女たちと放蕩な日々を送る俗物と噂されている。
「オマエは嫌なのかい?」
少女は両手で顔を覆ってしくしくと泣き出した。
「仕方がないもの」
ヤタツは呆れた。
狐族の娘なら意に沿わない相手の求愛など、後ろ足で砂を掛ければそれで済むのに。
ヤタツはまた酒をあおった。
手足の隅々にまで血が巡り、ふわふわと心地よい高揚感に満たされる。
「婚礼はいつなんだい?」
気が付くと、ヤタツは訊いていた。
「半年後」
少女はうなだれて告げた。
急に静かになったと振り返ると、芸者の姿は消え、彼女は一人で桜の木の下に佇んでいた。
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