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 それはとある新月の夜だった。  お座敷遊びにいった帰り、提灯を頼りに森の道を抜けていた甚右衛門は、いつの間にか伴の者とはぐれてしまった事に気がついた。  一本道だし、通い慣れた道なのに奇妙な事もあるな、と酒に酔った不明瞭な頭でぼんやり考えていた甚右衛門の少し前を、小柄な女が歩いていた。  月明かりもない暗い森を歩いているはずなのに、女の周りだけがおぼろげな青い燐光に包まれている。  その歩き方や体つきにどうにも見覚えがある気がして、甚右衛門は少し歩みを早めた。   女の顔は見えそうで見えない。 「お、おいっ!」  甚右衛門は思わず声を掛けた。  女は歩みを止め、ゆっくりと振り返った。 「おまえ……」 甚右衛門は絶句した。  お篤は骨惜しみせずくるくる働く女房だった。  野良仕事でも損なわれない抜けるようにしろい肌と、濃い睫毛に縁どられ、つねに笑みをたたえた優しい眼許をしており、片方にだけえくぼが出来る赤い頬、艶やかで豊かな黒髪には甚右衛門が贈った手彫りのかんざしを挿して毎日朝から晩まで働いた。  甚右衛門の隣で彼を敬い、腕にすがり、頼りにしてくれた。  それはまぎれもなく3年前に流行り病にかかり、医者も薬も神仏の助けも得られず若くして亡くなった彼の妻のお篤だった。 「お、おい、お篤か? お前なのか?」  甚右衛門は自分の声が震えているのに気が付いた。 「お前さん、自分の女房も見忘れるほど酒毒にやられちまったのかい」  お篤は情けなさそうに甚右衛門に言った。 「ああくさいくさい。酒と化粧の匂いがプンプンしてるよ、無理して女遊びなんかして、楽しいもんか」  丸い優しい顔立ちに似合わないズバズバとした昔のままの口調でお篤は言った。 「なれない酒なんかやめて、きちんとしな。先祖の墓も家屋敷もあんたがしっかり守らないと荒れ放題じゃないか、だらしない」 「お篤……」  甚右衛門は肩をすぼめて俯いた。  生きていた頃と変わらず、尻を叩いてくれるお篤の言葉に、子どものように泣き出してしまいそうだった。 「ああ、ああよくわかったよ。お篤、ずっとそばにいてくれたんだな、見かねて出てきてくれたんだな」 「それに親子ほど年のはなれた後妻を貰うそうじゃないか、相手の娘は承知して喜んで嫁いでくるんだろうね? 金と引き換えに無理やり嫁にしようってんじゃないだろうね?」 「いやそれは……」 「呆れたね、見損なったよ、あたしの惚れた旦那様がそんな卑しい心根だったなんて」  お篤は袖で顔を覆ってむせび泣いた。 「許してくれ、お篤」 「破談にするか?」 「するとも、お篤」    甚右衛門は生前から、お篤に泣かれると弱かった。  気のつよいしっかり者の彼女が涙を見せるなんてよほどのことだったから。 「そしたらまた、会いにきてくれるかい……」 「……」  疾風が二人の間を吹き抜けた。  葉擦れの音にかき消され、お篤がなんと答えたのか甚右衛門には聞き取れなかった。   目を開けるとお篤の姿はかき消され、甚右衛門は一人で佇んでいた。      それから三月後、件の娘の縁談は破談となった。  隣村の甚右衛門が、多額の違約金と慰謝料を積んで娘との結婚を断ってきたのだ。 「なぜなんだい、甚右衛門さん」  と誰かが理由を尋ねたが、甚右衛門の返答は要領を得ない。 「お篤が……戻ってくれたのだ」  とうに亡くなった前妻の名を、愛おしそうにも恐ろしそうにも呟いて、お篤に叱られるからと毎夜のどんちゃん騒ぎはピタリと止めた。  親を亡くした子どもに住処を与え、働き手を失った家族には無利子で金や米を貸し付け、傷を負った森の動物は元気になるまで保護をした。  浪費散財していた頃は、目ばかりギラギラと、赤ら顔に卑しい口元をしていた甚右衛門だったが、金や関心を人助けや慈善に振り向け  忘れかけていた信心にも力を入れて暮らすうち、今までになく穏やかな顔立ちになっていった。    
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