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捲損
いつまでも身体を蝕む後悔は――
◇◇◇◇
私の祖父が営む、地元の小さな書店。私はそこの店番を昔からよくするのだが、最近妙なお客がいる。……いや、お客と呼ぶのも違う気がする。
それは若い女性だった。華奢な肢体を喪服のような黒装束で包み、長い前髪で目元を完全に隠している。後ろ髪は、女の私も見惚れるほど美しい、真っ直ぐな貫庭玉だった。
彼女は、ある本棚の前で立ち止まって暫く背表紙を眺めたあと、一冊の本を手に取り、後書きをじっと眺める。そして本文をぱらぱらと捲り、軽く目を通す。そのまま何分か経つと、手にした本を棚へと戻し、何も買わずに店を出ていくのだ。いつも無表情に、無感動に。
ただ、一番初めの日だけは、少し眉を顰めていた。半月ほど前、振り返りざまに乱れた前髪の隙間、僅かに覗く綺麗な横顔。
一見嫌悪感に見えたそれは、今思い返せば、途方も無い悲哀を感じるものだった。
◇◇◇◇
余りの不審さと痛々しい雰囲気が気に掛かり、私はとうとう女性に話しかけることにした。店に私と彼女の二人しかいなくなる時を待ち、そっと背後に近付いた。
「あの」
「……あ、すみません、立ち読み禁止でしたか」
「いえ、そうではなくて」
答える私に、女性が怪訝な表情になる。注意以外に店員が話しかけてくる用件など、勿論思い当たらないに違いない。
「最近ずっと、同じ本を眺めているので。購入もされないし」
「すみません……」
「あ、責めているのではなくて。ただ、酷く悲しそうなので、どうしたのかなと……」
そこまで話し、やはりプライベートなことを聞いて非常識だったろうかと心配になる。
「……心配してくださったんですか。すみません」
「いえ、そんな」
「……これは、私の知人が書いた本なんです。書いたはず、といったほうが正しいんですが」
「……え」
「でも私、この本が読めなくて」
一瞬、どういうことか分からなかった。だって、本はここにあって、目も不自由ではなさそうな彼女が。
「読めない……?」
「怖くて、読めないんです。……後書きを読んで、きっとあの人の文章だと感じて。私のための文章かもしれないと思って。……でも、もし違っていたら。私なんかではなくて、他の人のためだったら」
女性は囁くように、早口で誰かに想いを馳せる。瞳は心なしか潤み、誰かの影を見詰めるようだった。そこに滲む、灼けそうなほど烈しい後悔。
「仮に私宛だったとしても、何が書かれているのか。何を思って書いたのか。何もかも恐ろしくて、どうしても読めないんです。あの人を信じていたはずなのに。それに、あの人の文章ではないのなら。あの人が生きていないとしたら。そう分かってしまうのが一番怖くて。……私のせいでいなくなった。私が役立たずだったから。自分勝手だったから。私がもっとしっかりしていれば、今でも隣にいてくれたかもしれないのに……」
呟いていた女性は、はっとしたように睫毛を伏せる。
「……すみません、勝手な話を」
「大丈夫です。……大事な方なんですね」
「ええ……」
私のような見ず知らずの人間にも縋りかけるくらいに、女性は悲しんでいるのだと思った。誰か、遠く離れてしまった大切な人に、焦がれ続けている。こんなにも、失意の淵に沈むほど。
「それで、後書きばかり読み返して、本文までは読めずに帰っていたんですね……」
「ご迷惑でしたよね……」
女性は恥ずかしそうに微笑み、店の出口を窺う。
「……今日は、帰ります。雨も降りそうなので」
「そうですか」
外を見ると、確かに灰色の雲が重く立ち込めてきていた。一旦家に戻った祖父は濡れないだろうか。
「お気になさらず、次からもゆっくり本を見てくださいね。……いつか、購入できるように」
「……ありがとうございます」
女性は一言遺し、人通りのない道を歩いていった。消え入りそうな雰囲気が、余計に心配になる後ろ姿だった。
彼女が見えなくなると、私は本棚から例の本を手に取った。彼女に習い、まず後書きに目を通す。
硬質で、誠実な文章だった。言葉遣いも美しく、余程読書をしていないと書けない域だろう。
――そして内容は、大切な誰かに向けた、謝罪や感謝だった。言葉の端々に、本人たちにしか通じないのであろう表現が散りばめられている。苦しいほど、相手を思いやる感情が、そこには溢れていた。
続いて本文も見てみようかと頁を捲りかけ、私は本を閉じた。これは、あの女性のものだ。彼女が一番に読むべきものだ。そう思ってしまったからだった。
後書きの中で、特に意識が吸い寄せられた表現がある。
――出来るなら、後悔せず幸せになって。
どんな事情があるのか、作家が女性とどういう関係なのか。私は何も知らないけれど。
いつか彼女が、あの本と向き合い、大切な人に会えるように、私は祈っている。
◇◇◇◇
私が早く動いていれば。
そう悔いつつも手は伸ばせず、今日も貴方を知れないままに――
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