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一 角
「1000万円?」
思わず、声が裏返った。
正面に座る悪友――篠﨑は、涼しい顔でまだ湯気の立つキリマンジャロを一口飲んだ。
マスターが趣味で焼いているというコーヒーカップには、褐色の肌に散った釉薬が鳶色の模様を無秩序に描いている。
「眉唾だな。なんだって、そんな大金」
上ずった気持ちを落ち着かせようと、ストローをガラガラ回してアイスコーヒーを流し込む。そんな俺の様子を一瞥してから、篠﨑はもう一口コーヒーを啜る。
「1人娘が殺されたそうだ。来月、結婚を控えていたらしい」
「だけど……『一角』と言ったか? その化けモンの仕業だって証拠は」
「ある。発見された遺体は、無惨にも喉元が喰い破られていた」
「野犬じゃねぇのか」
篠﨑は、嫌味な銀縁眼鏡の奥でニヤッと笑んだ。コイツの性格は、大学の門前で出会った時の第一印象のまま、10年経つが変わらない。気障で知的で優越感に満ちた――。
「信じられないのは、よく分かる」
胸の内ポケットから取り出した黒い手帳を開き、細かく折り畳まれた紙をスッと滑らせる。ウォールナットの濃茶色の天板上で、白い紙片が妙な圧を発する。左手を伸ばして広げると、そこには伝承に基づいた異形の姿がまことしやかに描かれていた。
「一角……」
まず目に飛び込むのは、額と頭頂の中間辺りから伸びている、長く鋭い円錐形の角だ。この化けものの体長がおよそ160cm前後、成人の身長程度との記述から、角の長さは少なくとも30cm超と推測される。
海獣のイッカクに似た特徴が名前の由来であろうが、ソイツの異様な外見は角だけではない。顔の両端に偏って突出したビー玉のような無機質な瞳、中央の小さな突起状の鼻には縦割れの切れ目が並ぶ。耳まで裂けた幅広いがま口の間からは、不釣り合いなほど長い牙が覗いている。ガッシリとエラの張った顎から連なる頸部も太いことから、咬合力はかなり強いだろう。体付きは筋肉質で、手足の先には水かきと鋭い鉤爪が伸びている。なにより特筆すべきは、全身を覆う暗緑色の鱗だ。ヌメッと冷えた質感も生々しく、生理的嫌悪感が掻き立てられる。
「こんなモンが、本当に居るってのかよ」
レンズを滑らかなシルクで丁寧に拭っていた篠﨑は、ゆっくりと布を畳み、それから眼鏡を装着した。理知的な神童の顔が、一気に狡猾な青年のそれに変わる。灰色がかった彼の瞳は、蠱惑的な湿度を帯びて、俺の迷いを暴き、まだ揺れる気持ちを鷲掴みにした。
「湿地のある雨津土地区の名は、『うつつのと』が変化したものといわれている。漢字で書くと『空角人』、角のある人ならざるものが棲む処を意味している」
手元の紙片――古寺に納められていた資料のコピー――に再び視線を落とせば、確かに異形の足元に「一角、若しくは空角人」と達筆でしたためられていた。
「三枝、1週間後の15時だ。その地図の場所に来い。エントリーしてから、一斉に狩りに出る」
「一角」の横には、簡素な地図が付いている。最寄駅と集合場所が黒く塗り潰され、学校、派出所と主立った目印が書き込まれている。その下に「武器・捕縛網の類は、当方で用意致す故、持参されませぬよう」との注意書きがある。
「本当に、1000万なんだな?」
「そうだ。Dead or Alive、捕まえた者勝ちの賞金レースだ」
俺の返事は分かっているとばかりに、口の端を歪めると、篠﨑は湯気の消えたカップを置いて、席を立った。
雨上がりの草原を彷彿とさせる香りが、一瞬だけ鼻先を掠めた。全く、気障にも程がある。男と会うのに香水なんか付けやがって。
せせら笑いつつ、ストローでガラガラかき混ぜて、薄まったコーヒーを飲み干した。
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