経 緯

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経 緯

 雨津土(うつと)駅を降りると、湿り気のある独特の青臭い匂いが鼻に付いた。電車で隣席になったお喋りなご婦人によると、この地区の至る所にはびこる下草が放出する胞子の匂いなのだとか。 「人体に影響無いとは言われてますけど、ワタクシ、あんな陰気な土地には、とてもじゃないけど暮らせませんことよ。ホホホ……」  水蒸気の満ちた空気を押し分けるように、やや緩んだ道を進む。この辺りは開発の波が未だ遠く、幹線道路でさえ舗装されていなかった。  地図を片手に、小学校の角を曲がる。鬱蒼と葉をつけた広葉樹が並び、学び舎との境界線を形作る中、木立の隙間から薪を背負う二宮金次郎の後ろ姿が小さく覗いた。  こんな筈では無かったのだ――。  三十路を前にして、こんな惨めな転落人生を歩むつもりはなかった。激戦の就職戦線を勝ち抜いて、やっと掴み取った中堅企業は、先月あっさりと倒産した。社長が夜逃げしたことすら知らされず、出社した途端、債権者に囲まれて文字通りボコボコにされた。退職金なんて気の利いたものもなく、手元に残ったのは無価値の自社株ひと束だけ。それも課長職に就けるからと上司に唆されて、消費者金融で借金してまで買ったというのに。  派出所を左手に、2つ先の角を右折する。作業服専門店で「ぬかるみに強い」と勧められた長靴を買ってきたが、靴底には早くも泥がへばり付いていて、足が重い。幾度か路傍の石に擦り付け、剥がしながら歩いた。  この怪しげな募集に俺を勧誘した篠﨑は、地元では大手に入る銀行に入社した。取引先に、一角に襲われたご令嬢の父親が経営する製薬会社があった。結婚間近のうら若き乙女が異常な死に方を遂げたという話は、閉塞的な地方都市では千里も万里も縦横無尽に駆け巡る。表立って公表されなかったにもかかわらず、かの父親が娘の復讐のために破格の賞金を用意して、腕に覚えのある若者を集めているという噂も、然り。 「ここか……」  薄く滲んだ額の汗を袖で拭う。「大門(だいもん)」と書かれた檜の表札が填め込まれた門の前に立ち、ブザーのボタンを押した。  引き返すつもりもないが、もうこれで引き返すという選択肢は完全に消えた。
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