狩 り

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狩 り

 離れを後にした俺達は、大門家の北端の勝手口から敷地外に出た。風のない窪地には陰気が停滞し、地虫さえも囁かない。  教えられた通り、小径を100m程進むと、大きな東屋(ランドマーク)があった。ここより北に広がる湿地一帯が、一角の棲み家だという。ほとんどは下草の生えたぬかるみだが、所々に膝丈の深さの沼も点在していて、嵌まれば簡単には抜け出せまい。それは、一角の餌食になるということだ。  ぐちょり……  三々五々飛び出した参加者達を見送って、最後に東屋を出た。床板を降りた途端、長靴が足の甲まで沈み込む。予想を上回る足場の悪さだ。無駄に動き回れば、徒に体力を消耗する。しかし遅れを取ると、他の参加者に賞金を浚われてしまうかもしれない。焦りと恐怖がないまぜになった強烈なジレンマが、心許ない視界の中で平常心を揺さぶる。敵は、一角だけではない。慎重に歩を進めながら、緊張で冷えた手の甲で、額を拭った。 『一角は、まず喉笛を喰い破り、獲物から声を奪います。次に首のここ――太い血管が走ってますな、これに牙を立て生き血を啜るのです』  先刻、窪田は自らのシワだらけの細い首を示した。 『男女を問わず、生気に満ちた者が獲物となります故、若い皆様はかと』  つまりは、撒き餌だ。餌を複数放ち、誰かが襲われたところを他の者が仕留める――そういう作戦なのだ。  相変わらず、視界はすこぶる悪く、腕を伸ばしても、指先が辛うじて見える程だ。仮に霧中に人影を見つけても、人間か一角かを見極めるのは難しい。殺るか殺られるかの極限状況で、角の有無を判別するまで待つ余裕が、果たして俺にあるだろうか。 「……ぁあああっ!!」  突然、悲鳴とも驚嘆ともつかない叫び声が響いた。  身体がビクリと硬直し、ガクガクと膝が震える。立ち竦んだ俺の前方から、弾む足音が更に遠ざかっていく。比較的近くに居た誰かが、声の主の元へと駆けて行ったに違いない。 「そっちだ! 逃げた!」 「追えっ!」 「逃すかあっ!」  一角の姿を見留めたのだろうか。激しい怒号と乱れた水音が飛び交う。  行かなければ。今しも捕獲されるかもしれない。惨めな人生をやり直すために、俺は、こんな所まで来たんじゃないのか? 「し、確りしろおおぉっ!!」  真白な虚空に向かって、腹の底から声を絞り出す。笑い続けている膝をバシバシと何度か叩き、両手で頰を強く張る。 「よし、行ける!」  大きく深呼吸して、右足をぬかるみから引き抜いた。続いて左足を抜く。その勢いのまま、俺は走り出した。下草が長靴に纏わり付いて足の運びはもたついたが、逸る気持ちに急かされる。 「わっ!? うぶっ!」  ところが、数mも進まない内に、前方に倒れ込んでしまった。足を滑らせた訳じゃない。右足が何かに引っ掛かったのだ。急いで上体を起こして、立ち上がろうとすると――。  ず、ぶ……ずるり 「ひっ……?!」  右足首が後ろに引かれた。まるで地べたから突き出たものが、意思を持って地中に引きずり込もうとしているように。 「っ、うわあああ!!」  長靴を脱ぎ捨てた。ずぶり、ずぶり、ぬかるみに沈みながら、泥を跳ね上げ、無我夢中で走り出す。絡みつく下草の鋭い葉先で皮膚が切れる。いつの間にか、左足も裸足になっていた。  ずしゃり  足がもつれて、また転んだ。少し乾いた下草の上、ゴロリと仰向けに伸びる。胸が大きく波打つ。もう動けない――。  生臭く湿った霧が肺を満たし、みるみる体温が奪われていく。喉から漏れる荒い呼吸音だけが、ヒュウヒュウ、ゼイゼイと周囲の静寂を乱していた。
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