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静 寂
ぼんやり見上げる虚空から、飽くことも無く、白い霧が静かに降りてくる。
呼吸が落ち着くと、全身の痛みと寒さに襲われた。軋んだ悲鳴を上げる関節を騙しながら身を起こす。ズキズキ痺れる足先は、惨たらしく血と泥に染まっていた。
逃げ切れたのか。姿こそ見なかったが、間違いない。あれは一角だ。俺を転ばせ、泥水の中に引きずり込んで、喰らおうとしたのだ。
ブルリと震えが走る。もう十分だ。俺は、狩りには向いていない。どん底でもいい。命さえあれば這い上がれる。一刻も早く、ここを離れよう。
重い腕を上げ、時計を見た。泥を拭うと、時刻は23時を示し、コンパスも生きている。距離は分からないが、南西に向かえば、東屋に着くようだ。
立ち上がりかけて、何となく――動きが止まる。
何だろう……おかしい。静か過ぎる。怒号も叫びも水音も聞こえない。
俺がどれほど遠くまで走ったにせよ、まだ狩り場の中だ。他の参加者が立てる音が、どこからも聞こえてこないなんてことはあるのだろうか?
可能性としては、3つ。
参加者全員が逃げたのか、殺られたのか――既に一角を捕らえたので、引き上げたのか。
思考力が戻ってくると、ゾワゾワとした違和感が四方八方から這い寄ってきた。
一角は、「濃い霧の夜にだけ現れて人を喰う化けもの」として、その存在が古より伝承されてきた。
この土地に古くから続く大門家のご令嬢が、その伝承を知らない筈はない。ならば何故、彼女はそんな夜に一角の出るような場所に居合わせたのだろうか。
おかしな話だ。彼女が殺されなければ、俺達は一角狩りになど参加者しなかったのに。
「……俺、達?」
不意に、ゾッとした。
最初から、餌は1人――撒き餌ではなく、給餌なのだとしたら?
……ずっ
耳が微かな物音を拾った。
ず、ず……べちゃり
泥水が滴り落ちる音だ。同時に、生臭さが強くなる。今夜味わったばかりの恐怖の記憶とリンクする。
べちゃり……ぺたん……ぼたり
冗談じゃない。こんな所で喰われて堪るか!
下草に両手を突いて立ち上がろうと前傾姿勢を取った時、両肩を強く掴まれて、乱暴に引き倒された。仰向けになった頭上に深緑の影が覆い被さり――。
「ぅ……うわあああ!」
白く濁った丸い眼球の奥で、闇に似た虹彩がキロリと俺に焦点を結んだ。ニパァ……と開いた大きな口には、サメのように鋭く尖った歯牙がズラリと並んでいる。
「止めろぉ! 嫌だぁ! 誰かっ……」
足をバタつかせ、腰を浮かせて暴れるも、骨まで食い込んだ鉤爪で、地べたに肩を押さえつけられれば、起き上がることも出来ない。長い角ごと、化けものの顔が近づいてくる。咄嗟に両手で喉を庇う。
ずぶり
「ぎゃああぁ……!!」
鋭い角は、迷わず額を貫いた。
叫びの余韻が耳の奥で長く尾を引き――やがて全てが闇に沈んだ。
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