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14 発情期
玄関のドアを開けたとたん、部屋を出ていこうとする母と鉢合わせした。
「どうしたの? 顔が真っ白よ」
開口一番、心配そうに母が言い、新の額に手を当ててくる。
「熱はないわね。むしろ冷たい。何があったの」
「何もない。パート行ってきなよ」
今は一人になりたかった。冷静になれるまで。
よくここまで帰って来られたと思う。自転車を漕いでいる間、頭の中で渦巻いていたのは、制服を着たまま獣のようにまぐわう二人の姿だけだった。
ハッハッハッ、と激しい息遣いで、井坂を激しく抱いていた大和。それに応えるように両腕を大和の首に巻き付け、嬌声を発し続けていた井坂。またそのシーンが脳裏に鮮明に浮かび、吐き気を催した。唾が込み上げてくる。
新は急いで靴を脱ぎ、トイレに駆け込んだ。便座の蓋を開けた瞬間に嘔吐した。酸っぱい臭いが鼻を突く。またえずくが、もう吐くものがないようで、唾液だけがポタポタと口からこぼれた。涙が出た。
「新、これ」
背後に母がやってくる。水の入ったコップを差し出され、受け取った。
一口、二口と水を飲むと、ようやく気持ち悪さが薄れていく。
「何があったの」
「――大和が運命の番に会ったんだ」
「――今日?」
「文化祭のときだけど――今日また二人が顔を合わせて、セックスした」
「――実際に見ちゃったの?」
「見たよ」
よりによって、新を裏切っている現場に立ち会ってしまった。あれなら事後報告の方がマシだったと思う。いや、自分に言わないで、隠し通してくれるのが一番良かった。
大和はそんなこと、できそうにないけれど。
「辛かったわね」
頭をそっと撫でられる。子供扱いするなと跳ねのける気力も湧かない。代わりに涙が出る始末だ。
「別れるの? 付き合い始めてから半年ぐらい経ってるわよね」
別れる、のフレーズを聞いて、初めてその選択肢が頭に浮上した。
今の今まで、どうして、なんで、と理不尽な思いに駆られているだけだった。
――俺たちは好き同士なのに。
運命の番じゃない、ということだけ。だがそれが、重大な意味を持っている。二人の幸せや将来に干渉してくるのだ。
「まだ考えてない。何も」
彼らのセックスを目の当たりにして、ただただショックだった。ショック過ぎて、感情的になる余裕もなかった。学校では。
視聴覚室に駆けつけた養護教諭が、大和には鎮静剤を、井坂には抑制剤を打っていた。二人はすぐに冷静になり、状況を把握していた。
大和が必死な顔をして、新に謝ってきた。何度も何度も。そのあとに、どうしてこうなったのか経緯を話してこようとした。だが新は、聞く耳を持たなかった。聞いたところで、意味がないと思った。大和が新を裏切って、運命の番とセックスした事実は変わらない。どうやっても。
新と大和のやり取りを、井坂は静かに眺めていた。余裕の表情で。大和が「もう二度と接触してくるな」と告げたときも、無言で笑っただけだった。
しつこく言い訳を連ねようとする大和を振り切って、新は学校を後にしたのだ。
追いかけて来ようとする大和を、宮尾が止めていた。
「別れた方が良い?」
気が付けば母にそう尋ねていた。
「だから付き合うなって反対したのに。あんたに傷ついてほしくなかったから」
母が手を掴んでくる。便器の前で座り込んだままの新を引っ張り上げてくれた。
「別に大和くんの肩を持つわけじゃないけどね。体の裏切りは、ある意味仕方がないのよ。運命の番のフェロモンは、ふつうのΩとαのそれとは全然違うから」
「――じゃあ許せって?」
「心まで持って行かれていないのなら」
凛とした声で母が言った。真剣な目で新を見てくる。
「大事なのは心よ」
新の胸を叩きながら、寂しそうに微笑んだ。
その日の夜は一向に眠気が訪れなかった。当たり前だと思った。あんな衝撃的な場面を目撃したのだ。神経が昂っている。リラックスなんてできない。
布団の中で寝返りを打つ。と、頭がクラリとした。眩暈が起きたように。次いでドクドクと心臓が速い鼓動を打つ。全身が一気に熱を帯び、発汗する。
「熱? 風邪?」
頭がぼうっとする。体もだるい。
照明から垂れている紐を引っ張り、部屋を明るくする。布団から出て台所に向かった。チェストの引き出しを開けて、滅多に使わない体温計を取り出す。脇の下に挟んで音が鳴るのを待っていたとき、玄関のドアが開いた。母が夜のレジパートから帰ってきた。
「どうしたの?」
また心配をかけてしまった。母の不安が混じった顔は、できるだけ見たくない。
「ちょっとだるくて」
ピピピッと音がする。体温計を脇の下から外して、結果を見る。三十八度ちょうど。
「やっぱり熱があるよ。三十八度」
風邪の症状はないのだが。知恵熱だろうか。脳がショックを受けたのは間違いがない。
「新、もしかして、発情期じゃないの」
「えっ……」
「とりあえず、部屋に籠る準備をしないと。私の前でオナニーなんてしたくないでしょ」
母が慌ただしく、引き籠りの準備を始めた。ボックスティッシュを十箱、ごみ箱を二つ、ペットボトルのミネラルウォーターをあるだけ。洗い替えの服と下着。
「ああ他に……なんだっけ。男の場合って、あと」
若干パニックに陥っているが、少し楽しそうでもある。複雑な表情を浮かべながら、「おめでとう」と母が言った。
――本当に発情期なのかな。
半信半疑になりながら、「ありがとう」と返事をした。
母の判断が正しかったと知ったのは、それから一時間後。
初めての発情期が、新に訪れた。
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