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2運命の番じゃない
高校から自転車を漕いで三十分の場所に新の家がある。築四十年超えで外壁がぽろぽろ剥がれ落ちているし、二階に続く階段の柵は焦げ茶色に錆びていて、お世辞にも綺麗とは言えないアパートだ。集合ポストの近くに斜めに貼られた『コーポ花井』のプレートも、もうすぐ風の力で外れてしまうだろう。
一階の手前のドアで立ち止まると、隣の部屋から幼児の甲高い声が断続的に聞こえてくる。ドカドカと床を踏み鳴らす足音も筒抜けだ。それを叱る母親の怒鳴り声も響いてきて、今日も元気だなあと思いながら、玄関のドアを開ける。「ただいまー」と、誰もいない居間に向かって声を出し、新は後ろ手でドアを閉め鍵をかけた。
薄い壁から伝わってくる騒々しい生活音を耳にしながら、新は冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに入れて一気に飲み干した。ついでに庫内に何があるか確認する。冷蔵室にはうどん一玉と卵と豚コマ肉が少々。下の野菜室には小松菜が一束。ラッキー、これだけで夕飯が作れる。買い物に行かないで済む。
制服のまま余り物で煮込みうどんを作って食べ、食器を洗ったらすぐに自分の部屋に移る。四畳半の畳は日焼けしていて茶色い。スタンドからギターを引き出して、万年床の布団に胡座をかく。チューニングはしない。今朝したから。
16ビートのコードストロークを何パターンか弾いたあと、さっきまで部室で演奏していたメロディを再現する。大和と一緒に、試行錯誤を繰り返しながら作っている曲だ。まだAメロまでしかできていない。でも焦る必要はない。時間がかかっても、お互い納得できるものを作りたいから。それで、今年の文化祭で披露したい。
ドン! とまた壁から音がする。別に嫌じゃない。むしろ都合が良い。こちらも消音対策をせずにギターを弾いている。お互い様だ。
傍らに置いてあったスマホが点滅している。ギターを抱えたままスマホを手に取り確認する。
『いま何してる?』
大和からのLINE。
それに対し、新はギターのイラストのスタンプを押して、ふっと笑ってしまった。
――さっき別れたばっかじゃん。
校門の前で名残惜しげな顔をして、新に手を振っていた大和。自分の表情はどうだったのだろうか。感情を抑え込めていたのか。自信がない。
大和からすぐに返事が来る。
『俺もいま弾いてる』
『さっきの曲? 続き浮かんだ?』
『浮かばない。夕飯食べたら良いフレーズ浮かぶかも。腹減った』
まだ夕飯を食べていないのか。時刻を確認すると、十九時ちょうどだった。
『夕飯呼ばれた。またね』
連続で大和がメッセージを送ってくる。なんというか、マメだ。付き合いたてのカップルみたいに思えて、勝手に顔がにやけた。
それから一時間ほどギターを弾いていると、隣の部屋から音がしなくなった。ギターをスタンドに戻し、お湯を沸かして風呂に入った。
入浴後は、いつものようにスウェットを着てリビングで宿題と予習と復習だ。勉強が好きなわけじゃない。真面目にやらないと授業についていけないからやっているだけ。
正直、高校受験では無理をした。いま通っている県立N校に受かったのは奇跡に近い。もちろん試験前は今までにないほどガリ勉になったけれど、自己採点ではギリギリ合格圏で、山勘が当たっていなかったら落ちていただろう。本当は中三の夏休みまでは、N校よりワンランク下の学校を受けるつもりだった。どうしても県立に行きたかったから。
日にちが変わったあたりで眠気が強くなり、新は勉強道具を片付け、傍らにあったオレンジジュースの残りを飲み干す。とそのとき、玄関から母の声がした。おかえり、と返事をすると、疲れたように盛大なため息を吐きながら、母がのそのそとテーブルまで歩いてくる。
「今日はどうだった? 体調に変化は?」
いつもの質問に「特にない」と即答する。彼女は常に神経質だ。新の第二の性がΩだと判明した時から。
母は「そう」とだけ答えて、肩に掛けている鞄に手を突っ込んで中を探った。数秒して、取り出した箱をテーブルに置く。
「新しいのが出たから買っておいた。常に持ち歩いてね」
Ω用の抑制剤だ。母は新しいのが発売されるたびに購入し、新に渡してくるのだ。
「まだ来ないと思うけど」
来る予兆が全くないのだ。微熱も頭痛も、けだるさも。
「発情期はいつ来るか分からないんだよ。明日突然来るかもしれない」
過去何度となく言われ続けている台詞にうんざりしながらも、新は素直に薬を取った。
「ありがとう」
「気をつけてね、本当に」
新の態度に満足したのか、母が柔らかい笑みを浮かべながら頭を撫でてくる。
「古いのはお母さんが使うから」
「分かった」
新は椅子から立ち上がり、自分の部屋に戻った。投げ出したままのスクールバッグから巾着袋を取り出す。中身は三つ。Ω男用のコンドーム、抑制剤、アフターピル。抑制剤を抜き取り、母からもらったばかりの新薬に差し替える。
決して裕福ではないというのに、この三点セットには金をかけるのだ。母は。
常に持ち歩けと口をすっぱくして言われる。万一のことが起きたときに備えろと。
――Ωって大変だよな。
発情期なんて来なければ良いのに。なんなら一生。
「いや……一生ないのは……」
強気に言い切れないのが情けない。
さっき、部活棟で。ヒートなんて来なきゃ良いと自分が言ったときの、大和の表情が忘れられない。残念そうで、発言を撤回してほしそうな、物欲しそうな目をしていた。
新だって、相手が大和なら良いと思う。番になって、いつか彼の子供を産むのなら――。
――時期尚早だ。思い上がるな。
お互い好き同士なのは分かっている。でも気持ちを伝えることができない。大和から言われても困る。
――俺たちは運命の番じゃない。
そして二人とも、まだ運命の番に出会っていない。
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