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5キス
公園入ってすぐの、遊具がある広場を横切り、ちょうど中央に位置する噴水も通り抜けると、雑木林の道が続く。木陰が増えて急に空気が冷たくなる。湿った土を踏みしめながら歩いていると、ポツンと一台だけある木のベンチがあった。二人はそこに並んで座った。
いつも通り、この場所まで来ると人の気配が無くなる。
ケースからギターを取り出し、手早くチューニングをしてから、お互い指鳴らしに、気まぐれに好きな曲を弾く。と、E・クラプトンの『シグニ』の旋律が重なり、二人は顔を見合わせて笑った。好きな曲が同じで、弾くタイミングも同じだ。気が合うなあ、と思った。嬉しい。メロディラインをハミングすると、大和も真似してくる。
風の音と、木々が揺れる騒めきと、鳥のさえずり。自分たちの奏でる音楽。心が落ち着くのに、心が躍動する。一人では感じられないこと。二人だからこそ、生まれる、楽しさ。喜び。
目を細めて、隣に座る大和を見た。彼の頭から腰にかけて、木漏れ日が映り込んでいる。茶色い髪の毛はキラキラと輝き、睫毛の影が揺れている。大和はブレザーを脱いでいた。少し寒そうな白いワイシャツは、眩しいほどの光を放っている。
新は大和の姿に、うっかり見惚れた。ギターの弦を押さえる指に力が入らなくなる。
「あらた?」
急に弾くのを止めた新のほうを、不思議そうな目で大和が見てくる。が、その一瞬後には眉を寄せた。堪らない、というような表情。
新は我に返った。いま見せてはいけない表情を見せてしまったと自覚する。
慌てて大和から視線を逸らす。でも遅かった。
あらた、とまた呼ばれた。聞いている方が苦しくなるような、切迫した声。
「やっぱり無理だ」
新の両肩を、強い力で掴んでくる。
「友達のままなんて、無理だ」
真剣な目で訴えてくる。好きだ、と。
「新のことが好きだ」
ダメ押しのように言葉でも伝えられる。震えた声で。
茶色みがかった彼の黒目には、自分だけが映っている。
「あ――」
意味のない声が出る。何を言いたいのか自分でも分からない。
逃げたくなったのは一瞬だった。
歓喜が込み上げてくるのを止められない。全身が甘く痺れる。胸が高鳴る。
「拒むなよ。お願いだから」
必死な顔で懇願され、新は大和から目を逸らすことができない。
――拒むなんて無理だ。
好きな人に好きだと告白されて、拒めるわけがない。
友達でいたいと思っていたはずなのに。友達でいた方が良いと分かっているのに。
体が本能のままに動いた。
大和に背中に腕を回した。膝に載せていたギターが地面に落ちる。大事なギターなのに、すぐに拾う気にはならない。
ぎゅっと抱きしめ返された。大和のギターも落ちたが、拾おうとする様子はない。
「俺も好きだよ。大和のこと」
ずっと喉に閊えていた言葉が、ようやく唇を割って、空気に触れた。
「あらた」
嬉しそうな声で新を呼びながら、更に大和がぎゅっとしてくる。彼の喜びが溢れてきて、その熱がしっかりと新の体にも伝わってくる。己の腕にも力を込めた。
暫し二人はそのまま動きを止めていた。ずっとこうしていたと思う。抱き合ったまま石像のように固まってしまえば、離れなくて済むのに。
顔を大和の胸に埋める。微かに汗の匂いがした。だが、αのフェロモンを感じることはない。まだ自分に発情期が一度も来ていないからだ。ホッとするのに、寂しい。
「良い匂いがする」
大和の呼吸が少し荒い。
「俺のΩの匂い?」
「いや、違うと思う。新の体臭だと思う。あと、さっき食べていたクレープの匂い」
「え、そうなの。なんか嫌だ」
恥ずかしい。汗の匂いをくんくん嗅がれているなんて。慌てて体を離す。とたん、大和と目が合った。
熱を帯びた目。自分を求めているような物欲しげな――。
大和の顔が近づいてくる。
――もうキス?
たった今、気持ちを伝えあったばかりで。
ペースが速すぎるような気がする。でも拒むことはできない。自分だってしたかったのだ。ずっとこうすることを望んでいたし、夢想していた。
自然に瞼を閉じていた。
そっと温かい唇が重なってくる。トクントクンと鼓動の音が速くなって、少し冷えていた体に熱が帯びてくる。
いままでにない多幸感に包まれ、皮膚がざわついた。
聞こえていたはずの鳥のさえずりも、木々のざわめきも聞こえなくなった。
一度離れていった唇は、すぐに角度を変えて触れてくる。ぴたりと唇がくっついて、大和の脈も感じ取れる気がした。
いつの間にかキスに夢中になっていた。唇が痺れてきて、鼻呼吸だけだと息苦しくなってきた。つい口を開けた。とたん、大和の舌がするっと口内に侵入してきた。
ぬるっとした感触。口の中の粘膜を擦られて、悪寒に似た快感が湧き出てくる。首筋のあたりがゾクゾクして、はあ、と息を漏らしてしまう。ピチャリと唾液が絡む音。いやらしい声も出た。
―――ダメだ、ここまでしちゃ。
急に理性が戻ってきた。大和から顔を離して、彼の肩を掴み、遠ざける。背中が反った。
「舌はダメだよ」
お堅いことを言っているのかもしれないが、これはダメだと思った。性欲を掻き立てるキスだったから。まだ、心も体も興奮している。冷めてくれない。
かぶりを振って、もう一度「こういうキスは嫌だ」とはっきり伝える。
「――ごめん。がっつきすぎだよな」
大和が気まずそうな顔をして謝ってくる。
暫し二人は無言になった。どうやってフォローして良いのか、新には分からなかった。だって、こんなに近い関係を誰かと築くのは、大和が初めてだったから。
「俺――大和のこと好きだよ? だけど」
一度言葉を切る。どうやって説明すれば良いのか、頭の中を整理する。
いやらしいキスが嫌なわけじゃないのだ。むしろ嬉しいのに。拒むのは不本意なのに。
「無理しなくて良いよ、新。ゆっくり進んでいけば――」
慰めるような口調で大和が言う。一定の時間をかければ、すべてクリアできるんだというような、楽観的な声だ。今のうちに、自分の気持ちをはっきりさせた方が良いと思った。
「俺は、発情期が来るまで、エッチしたくなるようなことはしたくないんだ」
大和の顔を窺いながら、静かに話す。
「性的な興奮が起こると、発情期が早まるって聞いたから。俺はできるだけ、発情期が来るのを遅らせたい」
常日頃考えていることだったし、気を付けてもいた。興奮したくなくて、エロい動画や雑誌を一切見てこなかった。できるだけいやらしい妄想も避けるようにしていたのだ。
「今年は受験勉強もあるし――発情期が来たら、三か月のうち一週間、まともに勉強できなくなる。ギターだって弾けなくなる」
限りある大事な時間が、容赦なく削られてしまうのだ。
新は物心ついた頃から、母の発情期を目にしてきた。抑制剤を飲んでいるにもかかわらず、セックスがしたくて苦しんでいたΩとしての姿を。三か月に一度訪れる発情期は、新のために食事を用意するときや、新の世話をするとき以外、部屋の一室に籠って出てこなかった。たまに隔離部屋から出てくる彼女は、常に顔を火照らせ、目を潤ませ、汗まみれになり、穿いているズボンを濡らしていた。
Ωの快楽を求める本能を、目の当たりにしてきたのだ。子供のころからずっと。
発情期が来たら一巻に終わりなのだ。今までの生活を続けていくことが困難になる。
母は抑制剤の新薬が出る度に飛びついて、「今度こそは大丈夫」と口癖のように呟いていたが、毎回大した効果を得ることができずに落胆していた。最近ようやく、発情期が落ち着いてきた。加齢によるものだろう。母は今年で三十九歳になるから。
「――そうだな。発情期が来ることは、新にとって嬉しい事じゃないんだよな」
大和の口調は、新の気持ちに寄り添っているかのように穏やかで冷静だった。だが、言葉の端々に残念そうな色が混じっている。
――俺とセックスしたいんだろうな。
それは当たり前のことだと思う。お互いもすうぐ高三で、十八歳になる。セックスしたい年頃なのだ。経験済みの級友も増えてきた。
「大和は――経験あるの」
もしセックスの経験があるのなら、我慢するのは辛いかもしれない。
「ないよ。誰とも付き合ったことがないから」
ずっと誰かさんに片思いしていたからね、と大和がいたずらっぽい口調で付け加える。
素直に嬉しくて、目頭が熱くなった。
「俺もそうだよ。ずっと大和のことが好きで」
話しているうちに胸がいっぱいになる。ずっと彼のことが好きで、その気持ちを大事にしてきたのだ。結ばれることがなくても、と。当分セックスはしないと自粛しつつも、大和としかしたくないと思っていた。
大和もそうなら嬉しい。彼のほうがモテるし、誘惑だってあっただろうに。
「新の発情期が自然に来るまで、俺は待つから」
「――大変かもよ。発情期がいつ来るか分からないし――高校を卒業しても来ないかも」
Ωの発情期が来る時期は、個人差がある。だいたい十六歳から二十歳の間に来ると言うが。
「それは嫌だな」
本音を漏らして、大和が笑った。
「でも我慢するよ。こんなに好きになったの、新が初めてなんだ」
男らしく端正な顔が、また近づいてくる。
唇が触れるギリギリで目を閉じて、大和の首に腕を巻き付ける。
何度も触れるだけのキスを繰り返した。
地面に落ちたギターを慌てて拾い上げたのは、だいぶ後のことだった。
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