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6母の交際反対
夕方の五時過ぎ。まだ夢見心地のまま自転車を漕ぎ、自宅のアパートに帰り着いた。
予定より二時間も帰りが遅くなっている。公園で両想いになったあと学校に戻って帰り支度をしたのだが、離れがたくなって、他の部員がいないのを良い事に、部室でずっとイチャイチャしていたのだ。
キスのし過ぎで腫れぼったくなった唇を、そっと指で擦る。皮膚が敏感になっているのか、少し気持ちよく感じてしまう。
幸せで顔がにやける。
大和と両思いだということはずっと前から分かっていたが、ちゃんと気持ちを伝えあって付き合うことになった今とは、幸福度が全然違う。
さっきまで弾いていた二人合作の曲を口ずさみながら、玄関のドアを開ける。と、三和土に母の靴が置いてあった。そういえば今日は金曜日。夜のパートがない日だ。
少し緊張しながら「ただいま」と声を出し、三和土に靴を脱いで、洗面所に向かった。手洗いうがいを済ませたところで、人の気配がした。
母が洗面所の出口を塞ぐようにして立っていた。
「母さん?」
彼女は険しい顔をしていた。
「αの臭いがする」
新の頭からつま先まで舐めるように見ながら、鼻をスンと鳴らした。
「いつも微かに臭ってたけど――今日は濃さが全然違う」
言い逃れを許さないような、鋭い口調だった。
新はため息を吐きながら、覚悟を決めた。
「同じ高校のαと付き合うことになった。前から気になってた人」
やましいことをしているわけじゃない。堂々と胸を張れば良い。そう自分に言い聞かせて、母の顔をしっかりと見た。
「そう――そのαは運命の番?」
語尾が高く跳ねた。そうであることを望んでいるのだろう。
「違う――けど、本気だから。お互い――」
「本気って! まだ高校生のくせに何言ってるの。運命の番がこの先現れるかもしれないのに付き合うっていうの!」
新の話を最後まで聞こうともせずに、母がヒステリックに叫び散らす。
「やめておきなさい。不幸になるだけよ」
きつい命令口調で彼女が言い切る。
「嫌だ」
新もはっきり言った。母が心配してくれているのは分かる。だが、大和のことを諦めるなんて絶対に無理だ。
「――私みたいになりたいの? なりたくないよね?」
また始まった。母は事あるごとに自分の不幸を例に上げて、新を説得しようと試みるのだ。
「俺は母さんとは違う」
そして相手のαも。
「違わない。自分だけは違う、特別だって思ってても、結局は同じなの。運命の番には勝てないの」
新が小さいころから、しつこく聞かされてきた科白だ。それは呪詛のように新の頭にこびりつき、今までずっと心にストッパーをかけてきた。でもこれからは自分の好きにしたい。今日付き合うことになって、やっぱりやめるなんてあり得ない。
「私だってあの頃は運命の番なんて気にしてなかった。そんな人が現れたって気持ちは変わらないって信じてた」
でも変わるのよ、と母が低い声で言う。新の手首を痛いほど強く掴んで。
「あんたの相手もそう。運命のΩが現れたら、新のことはどうでも良くなる。簡単に捨てられるのよ」
「それは母さんの場合だろ。俺は捨てられない。俺の相手はそんな奴じゃない」
手首に回っている母の指を一本一本剥がす。
「私を捨てた相手はね、すごく誠実な人だった。大学を卒業したら結婚しようって約束もしてたのよ。真剣に付き合ってた。でも運命のΩが現れたらすぐに心変わりした」
――だから俺もそうなるって?
新は首を振る。自分はそうならない。なってたまるか。
「たまたま母さんの相手が薄情だっただけだ。誠実でもなかったんだ」
これ以上話をしても堂々巡りだ。辟易としてくる。ウンザリだ。
「――相手のことを信じてるのね」
母が静かに言った。憐れむように新を見てくる。
「痛い目を見ないと分からないのよね、若い時は」
諦めたようにため息を吐いて、母が前髪を掻き上げた。
「せめて避妊はしっかりしなさい。私みたいに苦労したくなかったらね」
苦労。確かに苦労しまくったのだろう。二十一歳のときに新を一人で産み、育ててきて。母の口から、幸せだったころの話なんて一度も聞いたことがない。
運命じゃないαと付き合っても不幸になるだけ、とも言った。
「母さんは不幸だったんだ。俺がいても」
むしろ、新を産んだことで人生が狂ったのだろう。母はΩなのに、αが集う名門大学に通う才媛だった。ちゃんと卒業していれば、名誉のある仕事に就けたかもしれない。高給取りになれたかもしれない。貧困に喘ぐこともなかった。
「は? 何言って……」
「母さんは俺が生まれてきて不幸だったんだろ。母さんをこっぴどく捨てた男の子供だもんな」
自分がいなければ、他のαとの良い出会いがあったかもしれない。こんなボロアパートで燻ることもなかっただろうに。
「違う、そんな、違うわよ、新……」
狼狽したように顔を震わせ、母がかぶりを振った。
「あんたを産んで後悔なんてしたことない。ただ大変だったのは確かだったから――新に私と同じような人生は歩んでほしくないのよ」
必死な形相で訴えてくる。彼女の声から怒りと興奮が消え、気弱なそれに変わる。
新が無言でいると、気まずい空気になった。
「そろそろ夕飯の準備するね」
母が気を取り直すように明るい声を出したその時、インターフォンが部屋に鳴り響いた。
「俺が出るよ」
新も気分を変えたくて、速攻で玄関に向かい、魚眼レンズで誰が来たのか確認する。叔父だった。
ドアを開けると、Tシャツにスタジャン、破れたジーンズというラフな格好をした叔父が、無精ひげを弄りながらニカッと笑った。
「よ、元気だった?」
「うん、まあ」
無理やり笑おうとして失敗した。口の端が引き攣った。
「あれえ、元気そうに見えねえな。また母ちゃんと喧嘩したか?」
朗らかに笑いながら、ズカズカと遠慮なく叔父が部屋に入ってくる。いつもこんな感じだから気になることもない。
「暇だから遊びに来たよ。姉ちゃん、夕飯食べさせて」
叔父が台所に直行し、断ることも無く冷蔵庫から牛乳を取り出し、パックを軽く振った。残りわずかだと判断したようで、パックから直飲みしている。勝手知ったる他人の家だ。
なんとなく長居しそうな雰囲気。
三人で和気あいあいと話す気分にはなれず、新は自分の部屋に籠った。
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