9不穏

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9不穏

 四月八日の朝、八時前。  洗面所の鏡の前で髪型をセットしていると、母が「まだあ?」と呆れた口調で声をかけてきた。 「あ、ごめん。もう終わる」  最後に頭全体を手櫛で整え、洗面台に落ちた髪の毛を拾った。 「そんなに身だしなみを整えなくても、ちゃんとイケメンだから大丈夫よ」  母がふざけたように言って、せっかく静めた毛先を指でくるんと丸めてくる。 「やめろよ、もう。イケメンじゃねえし」  大和に比べたら平凡としか言いようがない容姿なのだ。 「ええ? 自己評価が低いわね。それって私の顔をディスってることになるわよ」 「はあ?」 「だってあんたの顔、私にそっくりじゃないの」 「――そう?」  母は美人の部類に入る。下手な芸能人よりも華のある容姿をしている。 「男できれいな顔って、目立たないのかな。もう少しすれば垢ぬけるかもね」  謎のほほえみを浮かべて、母が新の脇を通り抜ける。  新は首を傾げながら玄関に向かった。  ――俺の顔がきれい?   そんな自己評価を下したことは一度もない。たしかに男らしさが全面に出ている顔ではないが、だからといって女々しい感じもしない。眉は細めで、鼻も小ぶりだが、目と眉は釣り気味で意思は強そうに見えるだろうし。顔の中で一番唇が気に入っている。薄くて清潔感があり、口の端は引き締まっている。だから顔に甘さがない。 「早く行こっと」  新学期に合わせて買ってもらった、新しいスニーカーに足を滑り込ませる。前のは一年間毎日履き続けたせいで、捨てるときは靴底が剝がれそうだった。  ようやく今日から学校が始まる。嬉しい。平日は毎日、大和に会えるから。  春休みも、二日に一回はデートしていたが、あまり長い時間は一緒にいられなかった。大和が予備校に通っていたからだ。彼は国立のT大志望だ。一年のときからずっと、春、夏、冬の休暇のときは予備校の特別講習を受けている。それと、去年の夏休みは海外留学もしていた。カナダにホームステイしていて、帰ってきたときにはだいぶ英会話が上達していた。  ――ちょっと、家庭環境が違い過ぎるよなあ。  結婚相手も厳しく精査しそうだ。大和の方の家族は――そこまで考えて、顔が熱くなった。時期尚早だろう、大和との結婚を想像するなんて。  でも本気で付き合っているんだから、いつかは結婚の話も出るかもしれない。だって彼と別れるなんて全然考えられないから。ずっと付き合っていけば、その延長線上に結婚があるはず。  頭がお花畑になっているかも、と気が付きつつも、まあいいやと思う。せっかく大好きな人と付き合えたのだから、幸せを満喫しまくろう。  鼻歌を歌いながら自転車を漕いで学校に向かった。  三年になってもクラスは二年のときと変わらない。クラス替えがないのだ。だから残念だが、大和と同じクラスになることもない。  嬉しいのは、三年の昇降口と教室が二階にあることだ。外階段を十五段上れば終わり。  おはよう、と機嫌よく挨拶をしながら、新しい教室に入った。窓際の席に宮尾が座っているのを確認し、彼の傍に行く。 「代り映えがなくてつまらないよな」  本当につまらなそうな顔をして、宮尾が話しかけてくる。 「まあな」  相槌を打ちつつも、今年は楽しいことが沢山ありそうだと思う。  受験勉強は大変だが、アコースティックギター部の活動は九月の文化祭まで続けられる。大和と学校内で関わっていけるのだ。 「部員は最低一人入れないと」  つい独り言ちると、宮尾が「ギター部?」と返してくる。 「そう、現状は四人しかいないからさ。新入生が一人入ってくれないと」 「ああ、同好会に降格? もし足りなくなったら、俺が名義貸ししてやるよ」 「え、良いの」 「構わんよ」 「ありがとう」  宮尾とは、学校でつるんでいるだけで、土日に遊ぶことはないのだが、気が合うと思う。良い奴だとも。ちょっとゴシップ好きなところがあるけど。 「で、どうなの。颯とは」  付き合い始めた? と探りを入れてくる。  やっぱりゴシップ好きだ、と呆れつつも、新は素直に頷いた。宮尾になら教えても良いかと思った。 「え、マジで?」  宮尾が目を丸くして声を上げている。自分から聞いてきたくせに。 「他の奴には言うなよ。別にバレたら仕方ないけど、大っぴらにしたいわけでもないから」 「あ、わかった。秘密にしとく」  二回頷いたあと、宮尾が「そうかあ」と感慨深く呟いた。 「なんつーか、報われてよかったよ、颯の奴」 「忠犬って言ってたよな。大和のこと」 「だってそうだろ。毎日教室でお前の出待ちをしてたんだぞ。毎日だぞ」  大事な事なのか、毎日、を連発している。 「有難いよな」 「そうだよ、有難いことだぞ。あんなハイスペックが、お前に一途に惚れ込んでるんだから」  宮尾の口から、『α』の単語は出てこない。 「宮尾はさ、大和がαだと思う?」  探りを入れてみる。本当は勘づいているのか、本気で出来が良すぎるβだと思っているのか。大和は自分の第二の性を、公にしていない。新以外には。  暫し考えるように瞬きをしたあと、宮尾がひそひそ声で耳打ちしてくる。 「αかもしれないけど。本人が言いたくないならそっとしておかないとな。バレて噂になったら、面倒だし」 「面倒って」  ――βの女が、大和に殺到するとか? 「実は二年に、Ωが編入してきたって話がある。訳アリの編入らしい。年は俺たちと同じみたい」  宮尾の声が、いっそう小さくなる。 「たぶん、今までこの学校にいたΩは秋月だけだと思う。で、αも颯以外に数人って感じだよな。公立に来るαなんて滅多にいないから」  新は頷きで返した。  そうなのだ。αは公立を選ばず、αだけが集う名門私立に通うのが定説なのだ。  大和に聞いたことがある。私立に行けたのに、なぜわざわざ公立を選んだのか。彼は「いろんな立場の人間が集まる高校が良かった」と答えてきた。エリートを確約されたαだけの学校では、思想が一つに凝り固まってしまうから危険だと。  彼の意見を聞いて、尊敬の念を抱いた。凄く大人で、フラットで、良い考えだと思った。 「颯がαだって噂が立ったら、その二年が反応するかもしれない。どんな訳があって、ここに編入してきたかは分からないけど。波風は立てない方が良い」  そうだな、と新は相槌を打った。内心穏やかではなかった。  ――俺以外にΩがいるんだ。この学校に。  少し気になる。その二年の編入生が。αを積極的に誘惑するタイプのΩだったら、問題が起こりそうだ。 「学年が違うから顔を合わせることもないだろうけどさ。秋月も颯も、噂が流れないように大人しくしてろよ。付き合ってることも公にしない方が良い」 「――そうだな」  新がΩだということは、校内に知れ渡っているのだ。その自分が大和と付き合っているとなれば、彼の第二の性がαだと憶測され、追求されるかもしれない。  ――大和にも言っておかないと。公言しないように。  宮尾が言う通り、波風が立たないようにしよう。他のΩやαが自分たちの関係に干渉してくるのも嫌だし、受験を無事にクリアしたいのだ。ちゃんと卒業したいし。 「ありがとな、情報。すごく助かる」  宮尾に感謝の意を述べると、彼が照れ臭そうに笑って、「どうってことねえよ」と呟いた。
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