逆玉

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その日の午後、部長に呼ばれた私は、重い足どりで部長室へ向かっていた。 また何か叱責されるのか。 でも、思い当たる事が無い。 このところ大きな失敗はしていない筈だ。 何だろう? だが、クレームというのは思ってもみないところをついて出てくるものだ。 とにかく部長の話を聞いてみるしかない。 私の人生はいつも裏目裏目にでる。 ドアをノックする。 「佐藤です」 「入りなさい」 「失礼します」 ドアを開け、中に入る。 「そこに座って」 部長はそう言い、デスクの前にある応接セットの椅子を指差すと、自分もデスクから応接の椅子にやってきた。 「最近はどうかね、仕事は」 「はい、頑張ってやっています…私なりにですが」 「そう。課長の山田君に聞いたが、なかなか良くやっているようじゃないか」 「え、課長が? それは恐縮です」 「で、ズバリ聞くが、佐藤君に彼女はいるのかね?」 「は?」 「いや、プライベートな事を聞いてはいかんのだが、ちょっと興味があってな」 「は、はぁ…」 ここは、どう答えるべきだろう。 私には雅子という腐れ縁の女がいる。 関係は永いが、恋人というのではない。 時々会って、ホテルに行ったりもするが、例えばそれぞれが今、誰とつき合っているかというような事はお互いに知らない関係だ。 雅子は複数の男と遊んでいるような女で、私もその一人に過ぎない。 「ええ…それは…」 どう答えるべきか考えて言い淀んでいると 「では、こう聞こう」 そう言って、部長は私の目を暫しじっと見てから 「君には近々に結婚する予定はあるかね?」 そう聞いてきた。 「それは、ありません」 「本当だな?」 「はい、本当です」 「そうか、そうか」 そう言って、満足げな笑みを浮かべた。 「あのう…どういう事でしょうか」 「いや、立ち入った事を聞いてすまん。これから話す事はまずこれを確認してからでないと話せん事だったからな。すまんすまん」 「はい?」 「君は週に何回くらい中田建設に行っとるかね」 「中田建設ですか? 毎日行ってます。中田建設は今、我が社の主要取引先で発注額も増えてきてますから。毎日行って、資材部だけでなく全ての部署に顔を出してます」 「そうか、よろしい。君は優秀な営業マンだな」 「はぁ、恐れ入ります」 なんの事はない、会社にいると課長から 「行くところの無い営業というのは給料泥棒だ」 と嫌味を言われるので、行ってるだけだ。 中田建設のビルには各フロアに喫煙所があるのでそこに入り浸ってるというのが実態で、あそこにはそういううだつの上がらない営業マンが溜まっている。 「総務部にいる田中という女性を知っているかね?」 「田中さん…ですか?」 「この女性だ」 そう言って部長はデスクから写真を取って、私に見せた。 それは三階の喫煙所で時々会う女性だった。 かなりのヘビースモーカーで、その物腰、立ち居振る舞いから、元ヤンキーじゃないかと思っている。 「ああ、この女性なら知ってます」 「おお、そうか、そうか。話したことはあるのかね?」 「挨拶程度なら」 「おお、そうかそうか」 「この女性がどうかしたんですか?」 「うん、実はな、この田中という名前は嘘で、本当は中田美咲さんというのだそうだ、この人は」 「は?」 「で、今の中田社長のお孫さん、今の副社長の二女なんだそうだ」 「ええ?」 「社長の二女が職場にいては社員がやりにくいだろうと、名前を変えて勤めとるわけだ。一時グレて家出していた過去があるそうだが今は更生して真面目に働いているそうだ。この事は社員も知らない秘密だ」 「そうなんですね」 「うん、で、この二女が、君を見初めたらしい」 「はぁ…えっ? ええっ?」 「はっはっはっ。君は営業として大物を受注したって事だ。はっはっはっ」 部長は盛大に笑う。 「まあ、君のプライベートがどういう具合かは知らんが、これは君にとって人生のチャンスであることは間違いないな。そして我が社のチャンスでもある。先方は美咲さんの年齢を考えて、君と結婚を前提とした付き合いを望んでいるが、どうだ? 君はどうする?」 「あ、はぁ…。あまりにも急なお話で…」 「まぁ、無理もないな。よく考えて決まったら俺に知らせてくれ。もう若僧じゃないんだから、惚れた腫れたなんて話で人生踏み外すなよ。君がどういう状況にあるかは知らんが、なんであれ身辺整理するならいい機会でもある。仕切り直して再スタートが切れるって事だ。それに、君が中田一族に入ったら我が社の行く末も安泰だ。いい返事を待ってるぞ」 ついにチャンスが回ってきた。 人生最大のチャンスだ。 私は心の中で叫んだ。 中田建設と言えば創業八十年を超える老舗の建設会社、その中田一族の一員に加われば、これ迄の負の人生が一気に裏返る。 オセロゲーム最大の見せ場だ。 私は押さえきれない興奮を抱えたまま席に戻ったがじっと座っている事ができず、取り敢えず外回りと称して会社を出た。 しかし、私のどこが良いのだろう? 私は殆ど印象に残っていないが、いつ、私を見ていたのだろう。 冷静に考えてみると、どこか変な話にも思えてくる。 挨拶程度しかしていないのに、結婚を前提とした付き合いなんてあるのだろうか? 待てよ、でもお見合いという風に考えればそう言う事もあるのか。 私は何も考えていなかったが、向こうは勝手に私を見てお見合い感覚になっていたとか? でも喫煙所だぞ…。 後から、人違いだとか、何かの手違いだったなんて可能性もある。 そんな事になったら笑いものだ。 ここであまり有頂天にならない方がいいな。 私は緩んでいた顔を引き締めた。 そうだ、これから中田建設に行ってみよう。 そこで本人に会ってみれば、この話が手違いかどうか分かる。 私は中田建設ビルへ向かった。 ビルに着くと、総務部のある三階へ向かう。 取り敢えず喫煙所で待ってみる事にした。 二本目の煙草を吸いだしたところで、田中というネームプレートを付けた中田美咲が入って来た。 「あっ」 という小さな声をだし、うつむいたままドアのところで固まってしまった。 「こんにちは」 私は声を掛けた。 「こんにちは」 うつむいたまま言うと、おずおずと灰皿のところへやってきた。 上目遣いで私をチラッと見る。 …これは、本物だ。手違いなんかじゃない。 そう思った瞬間、私も何か照れ臭く、ドキドキしてきた。 何か言わないと… 「あ、あの」 「はい」 「よ、よろしくお願いします」 美咲はコクンと頷いた。 高校生みたいな事をやっててどうする。 私は一度、気づかれないように深呼吸してから言った。 「電話番号とかラインとか交換しましょう」 中田建設を後にした私はスキップしたい気持ちを抑えるのが大変だった。 元ヤンだと思ってた女性も恥じらう様子は普通の女だ。 特にタイプという女ではないが、見てくれなど、その内慣れるだろう。 なにしろ彼女は中田一族のご令嬢。 そしてこの話が会社の上司から伝えられたという事は向こうの親も了解済みの話だ。 世の中に、こんなに旨い話があるのだろうか。 天にも昇る気持ちというのはこういう事なんだろう。 この旨い話を逃してはいけない。 夕方、雅子に電話を掛けた。 雅子とケリを付けなければ。 事情を話せば、あいつならすんなり別れてくれるだろう。 お互い遊びだし、あいつはそう言う女だ。 電話で事情を話した。 「あら、玉の輿ね」 「まぁな」 「良かったじゃない」 「出来過ぎた話だよ」 「取引先ってどこ?」 「中田建設。名前は知ってるだろ? あそこの二女で中田美咲さんだよ」 「中田建設の中田美咲…」 「ああ、そうだ」 「…」 「何か?」 「向こうの過去は聞いたの?」 「うん、俺なんかとの結婚を許すのはそれなりの事情があるんだ。それは聞いた。君には言えないけどな」 「…そう。知ってるならいいの。貴方はそれでもいいのね?」 「ああ、大した事じゃない。今が一番大切さ、今が」 「あら、意外と心が広いのね」 「そうさ」 「おめでと。じゃあ、これでさよならね。幸せになって」 「ああ、君もな。今まで有難う」 翌日、部長に承諾する事を告げた。 部長は満足げに笑った。 昼休み、私は美咲にラインし、次の日曜日、デートに誘った。 水族館に行き、昼食を食べ、フレンチの店で夕食を摂った。 ありきたりでベタなデートだったが、私なりに精いっぱい頑張った。 それから毎日ラインするようになり、翌週もデートした。 会社の後に待ち合わせて一緒に夕食を摂る機会も増えた。 この「玉の輿」作戦を成功させるために私は細心の注意を払い、綿密な計画を立て、それを完璧に遂行していった。 最初の一夜でも美咲を十分に満足させ、その後も定期的にホテルへ行った。 付き合い始めて一か月が過ぎるころ、美咲が父親に会ってくれと言った。 指定されたレストランに行くと、中田建設副社長夫妻が待っていた。 中田建設副社長は眼光鋭い人だが、レストランでは終始笑顔で穏やかだった。 始めは緊張もしていたが、だんだんと打ち解けていき、楽しい夕餉となった。 美咲の母親も私の事を気に入ってくれたようだった。 帰りには、中田建設副社長から 「美咲をくれぐれも宜しく頼む」 と言われ、徐々に中田一族の一員になっていく自分を自覚した。 付き合い始めて三か月が経つ頃、部長に呼ばれ、そろそろ婚約しろという話をされた。 おそらく先方の希望だろう。 男の方から切り出すのがマナーだと言われた。 勿論、婚約に何も問題はない。 この三か月、目標に向かってひたすら作戦を遂行する私の働きぶりは、仕事では到底できないものだった。 早くに両親を亡くした私の親代わりを部長夫妻がしてくれて、結納の段取りなど、こまごまとしたこと迄やってくれた。 私は美咲と婚約した。 ここまでくれば、もう私は中田一族の一員と言っていい。 これからこの話が壊れるという事はない。 私の「玉の輿」作戦は外堀が埋まった。 だがそれと同時に、私はもう逃げられないという事でもあった。 それは式の日取りを決めようと美咲の家に行った時の事だった。 家へ行くと、その日は家の中に小学生くらいの子供たちがいた。 親戚の子でも来ているのだろうか? 「佐藤君、紹介しよう」 中田建設副社長は笑みを浮かべてそう言った。 「こちらから、長男の正夫、隣が長女の絵里、こっちが二女の真理で隣が次男の雄太だ」 紹介された子供たちは名前を言われるごとに私に会釈した。 「こんにちは」 よく分からなかったが私は挨拶した。 「みんないいかい、この人が君たちのお父さんになる人だよ」 中田建設副社長は、有り得ない言葉を吐いた。 私は一瞬何が起こったのか理解できず、固まった。 「佐藤君、美咲ともども、宜しく頼む」 「は…」 子供たちの前で取り乱す訳にもいかず、曖昧な事を言いながらなんとか場を持たせた。 子供達が部屋から去った後に、中田建設副社長から事情説明がなされた。 聞けば、美咲はバツ三で、父親の違う子供が四人いた。 何度か話そうと思ったが、機会を失っていたという。 それは嘘だろっ。 私は結婚と同時に四人の子持ちとなった。 後で聞いたところによると、どうやら雅子は美咲の事を知っていたらしい。 遊んでいる連中の間で中田美咲と言えば知らない者はいないという。 美咲は男をとっかえひっかえする女だという事だった。 このところ盛り場で見かけないので、また誰かを引っ掛けたのだろうと、皆で噂していたらしい。 「それが、貴方だったとはね。だから、過去は知ってるのって聞いたでしょ?」 そう言って雅子は笑った。 始めからこの事を知っていたとしたら、私はこの話に乗っただろうか。 それは分からない。 結婚生活はこの先大丈夫だろうか。 美咲がまた遊びだして離婚なんて事になったら、中田一族どころか、今の会社にもいられなくなる。 私はこの結婚で四人の子供の他に人生最大のリスクまで背負いこんだという事か。 そんな私が、今ハッキリ言える事は、世の中に旨い話など存在しないという事だ。
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