青い景色の中で

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青い景色の中で

 5月の青い風が、シャツの中を通り抜ける海岸通り。  僕は穏やかな気持ちで空を仰ぐと、またファインダーを覗く。虹色の陽光が散らばる波間に、フォーカスを合わせシャッターを連続で切る。  秒刻みで青色の表情を繊細に変えていく空と海。  僕は今日という日を忘れないように、その一枚一枚をしっかりと収めておきたかった。  僕とサキのこれからが、どちらに転んだとしても僕はもうこの景色を撮ることはない。  スリングバッグの外ポケットの中に忍ばせてあるものを確認する。僕が秘かに準備していたもの。  これを見てサキはどんな顔をするだろう?     何も言わず、ただ(うなづ)いてくれるだろうか?  期待をしないと決めているはずなのに、心の奥ではその反対の事を思っている。  形が定まらないまま、詰め込んでしまった覚悟を握りしめていると、懐かしい声が僕の名前を呼んだ。  誰なのかはもうわかっているのに、バッグを支える手と胸の真ん中が僅かに震える。  そっと振り返ると、そこに長い髪をスッキリと短く切ったサキがいた。  きっと僕は驚いた顔をしているんだろう。彼女は僕を見ると、ためらいがちに胸の辺りで手を振る。  つい2ヶ月前の面影とは程遠い雰囲気だけど、その仕草は正しくサキだった。伝えたい事ならたくさんあるはずなのに、僕は最初の言葉が出て来ない。ポケットのチャックを締め、手を振り返し一歩づつ彼女のもとへ踏み出す。  「久しぶり。元気だった?」    サキは落ち着いた声で訊いてきた。前よりもほっそりした頬のライン。口許はまだ少し緊張しているものの、ずっと(くぼ)んでいた目は見違えるほどに活力を取り戻している。  僕は言葉に詰まったまま、彼女から目が離せなかった。サキは少し戸惑う様子で下を向く。    「恥ずかしいから、あんまりじっと見ないで」  「ごめん。髪、切ったんだ」  「うん」  二人とも向き合ったまま、互いの足元に視線を落とす。平日の昼間の静かな波の音が、二人の沈黙を繋いでいた。  明るく茶色に染まった髪が潮風に逆巻いて、サキは片手で押さえる。    「ちょっと先まで歩かない?」  「そうだね」  どんな小さな提案もいつも先回りして僕がしていたから、一歩先を歩き出そうとする彼女の背中に、少し戸惑う自分がいる。  ぎこちない空気に慣れず、歩きながら会話のきっかけを探していた。  海岸通りの途中にある広場に着いて、潮風が白く染み付いたオレンジのベンチに並んで座ると、僕はようやく彼女に話しかける事が出来た。  「今日は一人で電車に乗って来たのか?」  「うん。でも各駅停車だけどね」  「一人で乗れたんだ」  「うん。一駅づつ停まるから、すごく時間はかかるけど私には丁度いいの」  隣のベンチに、犬を連れた老齢の女性が腰を下ろす。白いフワフワのトイプードルが、サキの視線に気付くと、2足立ちでハーネスを目一杯引っ張り両足をパタパタさせる。彼女はそれに穏やかに目を細めた。  「そういや、デピアの入った袋をおいたまま部屋を出ていった日は、大丈夫だったのか?」    僕はサキが突然出ていった時から、それがずっと気掛かりだった。  デピアは安定剤の頓服薬。過度な不安からくる過呼吸をうまく抑制出来ない時に飲む。  彼女は心がフリーズしてから慢性的にこの症状に襲われるようになり、何処へ行くにも肌見放さず持ち歩いていた。彼女にとってはお守りみたいなものだ。  「あ、うん。アイの家に駆け込んだ日ね、私それどころじゃなかったからか過呼吸の不安なんて吹っ飛んでいたの」  「それじゃ、あれから出ていないのか?」    サキは「うん」と大きく(うなづ)くと、ふぅと息を吐いてベンチにもたれる。 「なんとかなるものね。アイがね、あの日私の好きなシュガードーナツをたくさん買ってきてくれたの。最初は全然食べる気にならなかったのに、あんなに悲しくてもお腹は空くのね。一つ食べたら止まらなくなって、気付いたら4つも食べてたの」  サキは、ふふとやわらかく微笑む。降り注ぐ陽の光が彼女の頬を照らし、目の奥にあれる出る芯の強さを見つける。あんなに引きこもっていたのが、まるで嘘みたいに彼女は軽やかだった。  「相当、美味しかったんだな」  「うん。あんまり美味しくて3つ目からは、オイオイ泣きながら食べてたけど」  きっと彼女はその時、僕と別れる決心をしていたのだろう。納まりきらない不安と後悔を甘いドーナツと一緒に流し込む。泣きながらドーナツを頬張るサキが目に浮かんだ。
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