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サキのこと
僕はコンビニを出ると、サキとたまに行くスーパーに向かった。途中雨が止んで傘をたたんでいると、ズボンのポケットの中が慌ただしく振動する。相手はアイからだった。
彼女はサキの高校時代の同級生で唯一の友人だ。部屋を出てからサキは、一人暮らしの彼女の家に転がり込んだらしい。ずぶ濡れで何を聞いても泣くばかりのサキに、彼女は機転を利かせ連絡をよこしてくれた。
「翔ちゃん、サキなら家に来てるよ。一体どうしたの?」
「ごめん。また喧嘩した。アイツ、無事かな?」
「うん。今のところ大丈夫そう。でも、なんだかいつもと様子が違うくない?」
サキがすぐ横にいるのか、気遣うようにアイが小声で訊いてきた。
スマホの向こう側では、テレビの歌番組なのかソウルフルな歌声と共に軽快なリズムを刻んでいる。最近サキとテレビで観た映画の主題歌のようで、音楽に紛れて気配を消そうとする彼女の様子が目に浮かぶ。
「まぁ‥‥ちょっとね。でも、サキが落ち着いたら迎えに行くよ」
「そう? わかった」
「わるいね。アイツ何も持たずに出てったから」
「サキが手ぶらで外に出るなんて珍しいよね。でも心配ないよ。あとは適当にやっとくし、何かあったら連絡するから」
「ありがとう。助かるよ」
僕はスマホの画面をタップすると、濡れた髪ごと顔を拭い大きくため息をついた。安心感半分と疲労感半分。僕だって本当は、このまま何処かに逃げ出したい。
右肘に掛けた新品のビニール傘。さっきコンビニでタグ紐を切ってもらい、すぐに使えるようにしてもらった。
でも、きっとこの傘の出番は当分こないだろう。折りたたんだもう一本も右肘にかけると、僕はトボトボと家に戻った。
結局あれから、サキが僕のところに戻る事はなかった。
何度か迎えに行っても彼女は部屋から出てこようとはしない。僕はそれでも根気よく、彼女の帰りを待っていた。
けれどそれから半月ほどして、サキはアイに頼んで自分の荷物を引き上げてしまった。
僕とサキは同じ大学のサークル仲間だった。付き合い出したのは、社会人になって随分たってからだ。
彼女が28歳を迎える年に僕と同棲を始めてすぐの頃、ある事がきっかけで彼女の心は完全にフリーズしてしまった。
ジュエリーデザイナーを夢見ていた彼女が血の滲む努力の末、デザインコンテストで大賞を取ったあと、一番信頼していたデザイナーの友人が仲間内で彼女の作品について、SNSで目も当てられないほどの酷い陰口を叩いていたらしい。
以来、サキは自分から行動を起こすことをしなくなった。陽のあたる場所に出るのが、怖くてたまらないのだと。
いつも僕が提案することに気が向けば乗るくらいで、あとはほとんど動かない。いつも同じ場所で同じ毎日を過ごし、変化することを頑なに拒んだ。
そんな彼女が、しかもこんな大規模な変化を自ら起こすなんて信じられなかった。
一体何が彼女をここまでさせるのだろう?
心の整理もつかないまま、突然別れる形になってしまったけれど、僕は彼女のその行動力に感動すらしていた。
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