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彼女と僕の秘密
サキが出ていった部屋は、3年前の殺風景な僕の部屋に戻っただけなのに、妙にスッキリしていて落ち着かなかった。
一本だけになってしまった歯ブラシ。シャンプーの甘ったるい匂いも、カラフルな色合いの小物も消え、2つ並べて1つの絵になるマグカップも半分羽根をもぎ取られた蝶々になっている。
彼女の私物がおいてあった場所は、ポッカリ空いた雛のいない鳥の巣みたいで、うっすら茶色く残る壁飾りの跡を見て、僕は無性に寂しくなった。
ぼんやりと、その横に掛かっている白い額縁の写真を見つめる。
それは僕が初めてフォトコンテストで入賞した時の作品。「自然の青」というテーマで自然の景色が織りなす様々な青色を表現する、フォトグラファーの色彩感覚が繊細に求められるコンテストだった。
僕の作品は「紺碧の宇宙」と題した、鹿児島の小さな離島で撮った真っ青な空と、エメラルドブルーの海が水平線だけで繋がっているシンプルな写真だ。
大賞を取った作品に比べると出来はかなり雲泥の差だったけれど、彼女は僕の撮った青色は僕らしさが出ていて好きなんだと、いつもその写真を眺めていた。
僕が撮った青色の世界は、あの時彼女の目にはどんな風に映っていたのだろう?
穏やかな眼差しで見つめる日もあれば、僕と喧嘩した夜は、彼女はその写真を泣きながら見つめよく呟いていた。
──今日も翔に追い付けなかった。どうして私は翔が撮った青色みたいに、いつまでも突き抜けないんだろう?
今さらになって、その言葉の意味が僕の胸にストンと落ちる。途端に僕の中で何かが繋がった。
思い付きのまま壁に掛けたジャケットの中の財布から、出掛ける時にいつも彼女に置いていくICカードを取り出す。すぐにスマホの画面を開き、これまでの購入履歴を見て僕は愕然とした。
そこには一駅分の往復電車賃240円が引き落としされている。すぐに折り返したのか、往復の間隔は僅か10分。しかも何度も何度もずっと同じ履歴だけが残っていて、容赦なく僕の目を撃つ。
僕がよく車で出掛ける海岸通りは、最寄り駅から3つ目の駅。電車になんてとても一人では乗れなかったのに。きっとありったけの勇気を振り絞って、彼女は改札をくぐったはず。ホームに佇むサキの心許ない背中が瞼に浮かび、ギュッと胸を締め付けられた。
彼女は僕を追いかけて、ちゃんと前に進もうとしていた。青いの景色の中に、自ら出ていこうしていたんだ。
僕は一体、彼女の何を見ていたのだろう?
僕はあまりにも日常に埋もれ過ぎていて、勝手に独り善がりになっていた。
居ても立っても居られず、寝室の押入れに隠していたダンボールを引っ張り出し、何枚もの取り溜めした写真と走り書きのメモを茶封筒に入れると、急いで車に乗り込んだ。
僕は今すぐにでもサキに謝りたかった。
今さら何?とサキは呆れるだろうか。
僕はそれでも良かった。僕の知らないところで彼女が前に進もうとしている間、彼女の知らないところで僕は秘かに準備していた事がある。
僕達は、ちゃんと答え合わせをしなくてはいけない。よりを戻せるかどうかはわからなくても、きっとこのまま終わりにすればお互い後悔しか残らない。今の彼女の心になら、きっとそれが届くはず。
そしてそれは僕達がもう一度やり直せる、最後のチャンスかもしれない。
サキはまだアイの家にいる。時々アイから、彼女の近況をもらっていた。
サキは2か月経った今も、まだ僕に会う勇気がないらしい。
僕はアイのアパートのチャイムを押そうとしたが、ドアの向こうにいるサキを想い、やめた。
一呼吸つくと、僕のメッセージを詰め込んだ茶封筒を、そっとドア横の赤いポストに入れた。
それから10日ほど経って、ようやくサキからアイ伝てに会いたいと連絡が入った。
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