それはいつものありふれた日に

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それはいつものありふれた日に

 ファインダー越しに見る5月の空は、どこまでも澄み切っていた。  まるで画用紙いっぱいに、何種類もの青い絵の具を重ね塗りしたような深さ。レンズの端にレース生地のような雲が、鮮やかな青の層に薄く解けていく。  僕は左手でしっかりとレンズを支え、何度もシャッターを切る。   生温い潮の香りが鼻先を撫でると、今度は眼前に広がる青灰色に煌めく波頭にレンズを構えた。    ──カシャカシャッ、カシャッカシャッ  耳の奥に小気味よく響くシャッター音。この音の中にいると、僕はとても落ち着く。  留めておきたい景色を見つけるたび、夢中でシャッターを切っていると自分という輪郭が薄れていき、意識そのものだけがまるで景色の中に溶け込んでいくような気分になる。  ファインダー越しの世界には、余計なものは何一つ入らない。僕だけが見ている世界。  いつからか日々のルーチンから無性にはみ出したくなると、僕はカメラを持って逃避行の旅にでかけるようになった。旅といっても、家から車で少し走った先にある海岸通りだけど、海と空はいつも同じ顔をしていないから景色に飽きることがない。  ファインダーを(のぞ)くたび、果てしなく続くその深い青は、僕の散らばった感情を吸い込み、中庸(ちゅうよう)に戻してくれる。  この景色がずっと僕の傍にある限り、きっと僕は自分の決めた道に後悔することはないだろう。少しづつ、少しづつ時間をかけて後片付けをしていけば良い。そう思っていた。  ──私は(しょう)の未来にいない方がいいの  全てを諦めたような、色彩を失くした声。  些細な言い争いの末、サキは僕にそう言って、3か月前部屋を出ていった。降りしきる春先の雨の中、傘も差さずに。  いつもの喧嘩なら、サキは近くのコンビニに頭を冷やしに行くだけで済んだ。彼女は一人で遠くに出かける事ができなかったから。  小一時間ほどして僕が迎えに行くと、ガラス越しの彼女は全く読んでもいない雑誌のページをパラパラとめくっては誰かを待っている様子で、僕が店に入ると慌てて気付かないフリをする。  「帰ろう」僕がそう言うと「私、まだ怒ってるんだから」と、サキは唇をプクッと(とが)らせ僕が持ってる買い物カゴに、二人分のバニラアイスを放り込む。  「あとドーナツと肉まんも買って」怒っているクセに、ちゃっかり自分の好きなものと僕の分も忘れない。迎えに来てやってるのに、ほんと勝手なヤツだなぁと思いながら、僕はいつも黙っていた。その方が大抵はうまくいくから。  店を出る頃にはサキの機嫌は直り、いつも僕からさり気なく彼女の手を繋ぐことで、仲直りが成立していた。どっちがわるかったとか、どちらから謝るとかそんな必要もなく。  彼女は人一倍寂しがり屋だったから。  僕から何かを差し出してあげないと、彼女はいつも安心しなかった。  僕達の喧嘩の原因は僕が一人で出掛けてしまった事が大半で、サキは一人ぼっちにされることを極端に嫌がった。  僕がカメラをバッグに詰め込もうとすると、彼女はきまって泣き出しそうな顔をするので、サキがいつも昼頃まで起きない時をねらって、こっそり出ていく日もあった。  良心の呵責(かしゃく)を感じる僕は、キッチンの小さな脚長テーブルの上に3000円ほどチャージしてあるICカードを置いておいた。いつも行くコンビニで彼女が気分転換できるように。  そうまでしても僕には、どうしても一人になる時間が必要だった。  あの日、サキが部屋を出たあとすぐに追いかけたけれど、コンビニのガラス越しに彼女の姿はなかった。衝動的に出て行った彼女の安否に一抹の不安が押し寄せる。今度ばかりはただの喧嘩では済まないかもしれない。  なんとなく、サキはもう戻ってこない気がした。  
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